2005/01/17

太子の斑鳩

 奈良と言えば「法隆寺」が真っ先にイメージされるところですが、そもそも法隆寺のある地区の「斑鳩(いかるが)」という地名には、どういった意味があるのでしょう。

斑鳩という地名は、この地によく飛来していた鵤(いかる)という名前の鳥に由来すると云われています。鵤は斑鳩(まだらばと)とも呼ばれており、身体の大きさは鳩より小さく身体は灰色をしており、頭部・翼・尾が黒色をしています。翼を広げると白紋が見えるところから、このように呼ばれていたと云われています》

《「斑鳩(いかるが)」という名の由来は、一説によるとこの地に斑鳩という鳥が群をなしていたためだ、と言われています。この鳥はイカルという鳥で、漢字で「斑鳩」、「鵤」とも書きます。また伊香留我伊香志男命(いかるがいかしおのみこと)が、この地の神として祀られていたからという説もあります》

《いかる【〈斑鳩〉/▼鵤】=スズメ目アトリ科の小鳥。全長20センチメートル内外。体は灰褐色で、頭・顔・翼・尾は紺色。日本各地の山林に一年中見られ、澄んだ美しい声でさえずる。アジア北東部に分布。マメマワシ》と「goo国語辞典」からも引ける通り、イカルという鳥に関係した地名である事がわかります。

また同じ「goo国語辞典」には

いかるが-のみや【斑鳩宮】=聖徳太子が斑鳩に建立した宮。601年に造営を始める。太子没後、子の山背大兄王(やましろおおえのおう)が居住したが、643年蘇我入鹿(そがのいるか)に攻められ自殺する際に焼失した。宮址は、現在の法隆寺東院の地と言われる》

とあります。

さて、斑鳩と言えば法隆寺。そして法隆寺と言えば聖徳太子ですが、次にこの「聖徳太子」というありがたげな名前の由来を探っていくことにしましょう。

 《聖徳太子は生前、厩戸皇子(うまやとのみこ)と呼ばれていました。この厩戸という名の由来は日本書紀によれば、母の穴穂部間人皇女が池辺雙槻宮の庭の厩(うまや)の前で産気づき皇子を出生したため、厩戸皇子(うまやとのみこ)と呼ばれたとされていますが、この記述は唐の時代に中国に伝わったキリスト教の影響により、厩戸という名前に連想させて日本書記に追記されたのではないかと考えられ、本来の厩戸は蘇我氏の地元の「馬屋戸」に由来するのではないかと考えられます。

また、聖徳太子という記述は753(天平勝宝3)年に編纂された「懐風藻」で初めて出てきます。この聖徳太子とは「玄(はるか)なる聖(ひじり)の徳をもった太子(皇太子)」という意味で、聖徳太子の師の恵慈の言葉「玄聖之徳」に由来しています》となっています。

ポリネシア語による解釈
矢田丘陵南東麓、富雄川右岸の地域で聖徳太子がこの地に斑鳩宮を造営して、推古13605)年10月から同29621)年2月まで住み、同15607)年には法隆寺を完成させた土地です。この「いかるが」は「斑(まだら)の鳩が群居する場所」の意と解されています。「イカル」または「イカルガ」は、怒るように鳴くスズメ目アトリ科の小鳥であるとされます。

この「いかるが」は、マオリ語の「イカ・ル(ン)ガ」、IKA-RUNGA(ika=fish,prized possession,warrior,victim,cluster,heap;runga=the top,above,the south)、「最高の地位にある人の自慢の土地(または宮)」 の転訛と解します。ただし「(政争の)犠牲にされた最高の地位にある人(の住む土地、宮)」と解することもできます》
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

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