前回までに見てきたように、Classicとは要するに「古典」である。では、次に「古典」とはなにかについて、見ていくことにする。
大辞林で「古典」を見ると
[1] 学問・芸術などの分野で古い時代に作られ、長い年月にわたる鑑賞を経て、現在もなお高い評価を受けている作品。
[2] 過去のある時期まで尊重され、その後、新しい方法・様式に取って代わられた学問・技芸など。
[3] 古くからあるきまり。昔のおきて。
[4] 古い時代に書かれ、典拠として受容されている書物。
[1] 学問・芸術などの分野で古い時代に作られ、長い年月にわたる鑑賞を経て、現在もなお高い評価を受けている作品。
[2] 過去のある時期まで尊重され、その後、新しい方法・様式に取って代わられた学問・技芸など。
[3] 古くからあるきまり。昔のおきて。
[4] 古い時代に書かれ、典拠として受容されている書物。
とある。
さらに「古典音楽」を見ると「民俗音楽や、ジャズ・ポピュラーなどの大衆音楽以外の、芸術的に正統とされる西洋音楽。クラシック音楽」とあり、単に「古い」とか「歴史がある」というだけでなく、「(民俗音楽や、ジャズ・ポピュラーなどの大衆音楽以外の)芸術的に正統とされる」と「古典」という字面からは読み取れない「特別な価値」が含まれていることがわかる。
<そもそも「古典」とは、いかなる意味であるのか?
国文学者の池田亀鑑によると「古」とは「十」と「口」とからなる字で、十人の口を経るということで時間軸の長さを意味し、「典」はテーブルの上に巻物が並べられている字で、大切なものを意味するのだという。さらに「古典」とは、英語Classicの語源となったラテン語のクラシキ(最上のものの意味)の翻訳語なのだという。
池田亀鑑によれば「古典」とは「最上のもの、たくさんの人が伝えようとするだけの価値のあるもの」なのだという。古典作品は、悠久の彼方から存在し続けたわけではない。そこには誰と特定できないまでも作者がおり、新作として享受した者たちがいる。数多くの作品が生まれる中で、享受者たちはより良いもの、伝える価値があると感じたものを他人に、子孫に教えていった。十人以上の口から耳へ、目から口へ、評判はテキストとともに伝承されて、いま此処にある>
「古典」という言葉には、単に「古いもの」という意味に止まらず、このような深い意味が含まれているのである。
古典の「古」とは十と口から成る会意文字で、十は長方形の干(たて)、口は祝祷(しゅくとう=神官を通じて神に祈ること)の器の形で、中に祝祷の詞を収める。この祝祷の効果を維持するためには、これを安全に護ることが必要であり、そのために口の器上に聖器としての干(たて)を置いて、神意を長持ちさせる意の会意とも言われる。
また「古」とは固く守られた祝祷を意味し、その詞(ことば)には霊力が宿っていると考えられており、なお厳重に守護する必要があるときは、さらに外囲いをつけた。これを『固』という。「古」は象形文字では、先祖など人の頭蓋骨を象ったものとされる。
次に「典」。これは冊(さつ)と几(き)から成る。冊は「かきつけ・ふみ」の意で書籍を表し、几は机の意。したがって、典とは机の上に書籍が置かれている形で、これが帝王の書である典尚や国の典範を意味するようになった。
<つまり古典とは、第一義に古人が神に対して捧げた詞ということです。それは霊力に満ち、命を宿しています。ゆえに大切な先例、典故、規範として書き記され、守り伝えられねばなりません。
しかし古典とは、ただ古いだけのものではありません。古いから大切なのではありません。古いから古典なのでもありません。古典とは今なお活力を有し、生き生きと生き続けている生命なのです。
躍動する生命なのです。大切なのは、干と口という型に守られている内側の「心」であり「命」です。学ぶべきは古え人が大切に育んだ「心」であり、伝えるべきはその「命」です。その「心」と「命」が生かされることが大事なのです。それが生かされているものを古典、あるいは古典的と呼ぶのではないでしょうか。
そこには先人のたゆまない努力や格闘、祈り、願い、信念、至誠、愛情、あるいは悲しみや苦しみ、喜びと笑い、苦悩、歓喜が、つまり人の心の想い、精神の営為、魂の歴史、生きた証が幾重にも幾重にも、畳まりながら流れています。だから古典は「重く、深く、尊い」のでしょう。古典を学ぶとは、先人のその「心」を尋ね知り、その「命」をわが身に宿すことではないでしょうか。その時、私たちは先人とともに古へを生き、先人は私たちとともに今を生きる。その共感こそが古典の悦びであり、時空を越えるその力こそが古典の普遍性であると思います>
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