1925年に交響詩「タピオラ」を発表して後も、シベリウスは創作をやめることはなかった。しかし自己批判的性向が年を追って高まり、なかなか作品を発表することができなくなっていった。
世間では交響曲第7番以後、いやでも交響曲第8番への期待が高まった。シベリウスの手紙をみると、作曲を行っていたことは事実であろう。
「交響曲第8番は、括弧つきでの話だが何度も“完成”した。燃やしたことも1度ある」
シベリウスの死後25年を経て、机の中から発表された「作品117」(ヴァイオリンとオーケストラのための組曲)は、シベリウスが「出版不可」と示しているにもかかわらず、充分に聴き応えのある作品である。
1901年2月から3月にかけて、アクセル・カルペラン男爵の尽力でシベリウスは家族を連れてイタリアへ長期滞在の旅に出た。ジェノヴァ郊外のリゾート、ラパッロに住まいと作業小屋を借り、シベリウスはこの作品の作曲を進めた。
厳寒のフィンランドに比べ、温暖なこの国を彼は「魔法がかかった国」と評し、スケッチの筆は急速に進んだ。また、この国の様々な伝説や芸術作品も彼の創造力を刺激した。
第2楽章の楽想は、フィレンツェでの印象やドン・ファン伝説にインスピレーションを得た、と言われる。またローマ滞在中にパレストリーナの音楽に多く触れ、その対位法技法から多くを学んだ。
しかしシベリウスは、この作品をイタリア滞在中に完成させることはできず、フィンランドに戻ってからも筆を入れており、1901年11月にカルペラン男爵宛に完成が近いと知らせている。
この時点で一旦完成とした後、年末に再び大幅な改訂を行った。
以前にも記述した通り、一作毎に密度が凝縮されていったのがシベリウスの音楽の特徴だけに、まだ若い頃(36歳)に書かれたこの『第2番』は、多くのシベリウス・ファンにとっては
「まだシベリウスらしい深みに欠ける分、物足りなさを感じる」
と、評価する人も少なくないようである。
しかしながらワタクシはこの交響曲第2番は、疑いなくシベリウスの代表傑作のひとつと思っている。後年の交響曲が深い精神性を掘り下げた傑作である事は間違いないが、同時に音楽として楽しめる要素も削られているだけに、特に初心者やシベリウスに馴染みの薄い人には、正直お勧めとは言えない。そうした意味からも、音楽の魅力的な楽しさを圧倒的なスケールで教えてくれる、この『第2番』は絶対にお薦めなのである。
なにかの解説本で、この曲の事を「若い時に聴いたら、絶対にハマルカッコ良い曲」と書いてあった。ワタクシ自身、この曲を初めて耳にしたのはすでに30近かったからすでに「若い時」とは言い難かったが、それでも充分に感動した事は忘れない。
その後、この解説を読んで、確かに「なるほど」と思ったものだ。この曲を10代や学生の頃の若い感性で聴いたら、もっと感動できたのではないかと・・・
どこまでも世界が拡がっていくような音の膨らみと、力強く歩んでいくような音の厚みが圧倒的な感銘を呼ぶ。あたかもブルックナーを思わせるような雄大さは、古今東西のフィナーレの中でも指折りの素晴らしさであり、何度聴いても感動が湧き上がってくるのを抑えられないのである。