2005/03/29

シベリウス 交響曲第2番(第2楽章)




 光と闇が交互に出て来て、次第にスケールアップしていくような構成の楽章です。アンダンテとアンダンテ・ソステヌートの主題とが交錯し、独特の気分を醸し出します。第2楽章は、様々な要素が絡み合って展開していく複雑な構成である。

1楽章も素晴らしいが、ここまではまだまだ「フツーの曲」という感じがあったが、第2楽章以降は特に格好良く独特の魅力を増していく。

 シベリウスといえば「音楽界の七不思議」に数え上げられる「謎の沈黙」が最も有名である。

最後の交響曲となった第7番を書き上げた1924年、シベリウスは58歳だった。決して若いとはいえないが、音楽家としてはまだまだ活動できる年齢であり、実際にシベリウスは92歳まで長生きをしたのである。しかしながら、58歳でこの最後の第7交響曲を作曲した後、92歳で没するまでを人里離れた山荘に隠棲したシベリウスは、静かにこの世を去ってしまった。その間、1曲の音楽も発表せずに33年間もの長い年月、何をしていたのか皆目わからないままだった。

<1924年、58歳で第7交響曲を発表したシベリウス。当然、続く第8交響曲に期待が持たれました。ところが第8交響曲は、いつまで経っても完成しませんでした。

不思議なことに、シベリウスの創作活動は交響曲第7番や交響詩「タピオラ」、劇音楽「テンペスト」が書かれた19241926年頃をピークとして急速に低下し、数年後には何も生み出さなくなってしまいます。こうして1929年を最後に、実質上シベリウスの創作は停止してしまいます。

彼は、その後1957年に亡くなる92歳まで長生きしたから、残る28年間は何も作曲しなかったのです。

これは一体、どういうことでしょう?

なぜシベリウスは、ふっつりと作曲の筆を折ってしまったのでしょうか?

実を言いますとシベリウスの創作力の急速な減退は、今でも謎のままなのであります。「経済的事情」からではありません。シベリウスは生前から圧倒的名声に包まれ、交響詩『フィンランディア』の成功によって、フィンランド政府から終身年金を貰う身分でありました。

1925年には、シベリウスの生誕60周年が大々的に祝われ、フィンランド大統領からは白バラ十字勲章が贈られ、国民からの寄付27万マルッカを受け終身年金も10万マルッカに増額されているのであります(現在のレートで1マルッカは約23円だから、単純計算で約230万円・・・しかも100年近く前のこと)

 そのような恵まれた生活環境にいながら、なぜ突然作品を生み出さなくなったのか、謎は深まるばかりであります。とは言え謎を解く手掛かりとなりそうなものが、なくはありません。それを検証してみたいと思うのであります>

<沈黙の期間中、シベリウスは何も音符を書かなかったわけではありません。 旧作の編曲などは、細々とやっておりました。それに様々な証言によりますと、彼は決して怠けていたわけではなく、毎日規則正しく机に向かっておりました。

では机に向かって、何をしていたのか。幻の第8交響曲を作曲していた、というのが大方の推測であります。

シベリウスは1920年代後半を第8交響曲の作曲に費やした、と思われる節があります。1932-33年のシーズンに、セルゲイ・クーセヴィツキー指揮するボストン交響楽団は、世界で初めてシベリウスの交響曲の全曲演奏を行いましたが、そこでは「8交響曲の初演も行われる」と、予告されておりました。

同じ1932年、イギリスに設立されたシベリウス録音協会は、会員にシベリウスの全作品のレコードを届ける企画を開始しましたが、そこでもやはり「8交響曲」が予定に入っていたのであります。

結局、この時は第8交響曲は間に合いませんでした。しかし新作交響曲は、1940年頃にいったん完成したという説があります。1945年、イギリスの指揮者ベイジル・カメロンは、シベリウスから次のような手紙を受け取りました。

「私の第8交響曲は何回も完成しているのですが、まだ満足の行く出来ではありません。時が来れば、喜んでお渡し致しましょう」

シベリウスはトマス・ビーチャムにも、同様の約束をしているのであります。しかし今回もまた、交響曲のスコアは指揮者たちの手元に届けられることはありませんでした>

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