2005/03/04

烏丸通

 最近は私立ばかりでなく、公立校の修学旅行も随分と贅沢になって来ているようですが、ひと昔前までは小・中学校の修学旅行といえば京都・奈良が定番でした(生まれも育ちも愛知のワタクシも、小学校の修学旅行はご多分に漏れず京都・奈良でした)

京都でのお定まりコースは、まず京都駅からスタートして、東本願寺を横目に三十三間堂から八坂の塔(法観寺)を仰ぎながら二年坂・産寧坂(三年坂)、或いは茶碗坂や清水坂を上がって清水寺・八坂神社(円山公園)、そして銀閣寺、平安神宮という東山コースか、嵐山から御室仁和寺、龍安寺、そしてメインの金閣寺という嵯峨野・北山コースが、最も代表的なところでしょう。

京都駅には南側の八条口と北側の烏丸通口とがあって、京都タワーなどがあるのは烏丸通の方で、5分も歩くと直ぐに巨大な山門の東本願寺が見えてきますが、この辺りが烏丸七条であり目の前の広い通りこそは、京を代表する「烏丸通」です。

《烏丸通は、平安京成立期の烏丸小路に出発するから、千二百年の歴史をもつ。  当初は幅員12メートルの小路であったが、現在は20メートル級の京都の中枢的な幹線道路の一つである。京都の道路の多くが、平安時代よりかなり狭小になっている事実からみると、その時代より拡幅されている例としては、珍しい方に属する。

烏丸通、現在は「からすま」と呼んでいるが、正式には「からすまる」である。この小路名からとった、元貴族烏丸家は「からすまる」と発音している。小路名の由来は明らかではないが、平安時代には小路とはいえなかなか著名な通りであった。一条大路から二条大路、さらに三条大路にかけては藤原氏一族の豪邸がずらりと軒を連ねており、それはまるで藤原ストリートといえるほどのものだった。

この藤原氏の邸宅は、平安中期以降になるとしばしば「里内裏」という、臨時の内裏(御所)となった。本来の内裏が度々の火災によって失われると、その度に臨時の内裏が生まれたが、早くいえば天皇が皇后や中宮の実家へ臨幸するという形であった。もちろん内裏が焼け、さらに再建という繰り返しが行われている間は良かったが、王朝政府の手元不如意、つまり財政難が続くと、この内裏再建もままならないものとなった。

実際、内裏の焼亡は最初は建設から百数十年間はなかったが、一度失火すると後は平均十年前後で焼失するという有様である。 そのたびに「里内裏」に臨幸したのであるが、中世に入ると遂には元の平安京以来の宮域に再建することを断念してしまった。臨時の里内裏は固定された内裏となってしまい、それが烏丸小路以東に定着し始めたのである。

現在の京都御所は、この里内裏すなわち藤原氏邸を出発点としている。しかし天皇家や貴族が集住する烏丸小路も、15世紀後半の応仁の大乱でほぼ壊滅状況となってしまった。乱の終息後、一条東洞院にあった内裏の付近には「禁裏6丁町」が作られたが、まだ戦国期には烏丸小路の一条から二条の東西両側に広大な田園風景が見えるのみであった。

 その烏丸通を再建したのは、秀吉の手による京都大改造である。禁裏御所の再建は織田信長時代に始められたが、秀吉によってさらに大規模に進められ烏丸通以東の大空間が急速に埋められた。この通りの今出川~丸太町間では公家衆屋敷が並び、さらに町屋が軒を連ねるようになっていた。

秀吉の後を受けた徳川家康も、烏丸通の甦りに手を貸していた。慶長初年に東本願寺と寺内町の寺地を烏丸六条の地に与え、五条通(当時の橋通)で開発がストップしていた烏丸通の南伸を、七条通まで進めたのである。

さらに十八世紀初頭、江戸時代京都の三大大火の一つに数えられる「宝永の大火」によって、烏丸通は変化をみせた。幕府側がこの大火を機に、禁裏御所と公家町の拡大を計画したからである。烏丸通の今出川~丸太町間にあった多数の町屋を疎開させ、その跡に多くの公家衆屋敷を増築したのである。まるで平安時代を彷彿させるかのような、街路が誕生した。無論、この江戸時代の烏丸通も狭いものであった。幅員数メートルである。その街路に沿って丸太町以南では、蒔絵屋・古手屋・絹布屋・鼓屋・袈裟屋・経師屋・色紙・短冊・手本紙・張貫人形などの商店街が形成されていた。

明治十年、京都ステンション(ステーション)の設置は、烏丸通をスターの座にのしあげた。七条通以南に、道路が貫通したからである。その勢いは、明治末年まで続いた。京都市が大規模な都市近代化計画を実施した明治四十年代、烏丸通は北への延伸と道路拡張が行われ、近代都市に相応しいインフラが整備されたのである。

そして明治四十五年六月、市営電気鉄道が丸太町~京都駅間を走った。大正天皇・昭和天皇の即位大礼の行粧は、いずれもこの烏丸通を行進した》

《京都を代表する通りのーつ、烏丸通。この「烏丸」の名前の由来をご存じですか?
一条通千本西入にその名の町がありますが、これはもともと烏丸今出川にあった町を豊臣秀吉が移したものだそうです。また京都駅の南側にも烏丸村という村があり、これらが京都を南北に縦断する烏丸通の始まりだ、という説があります。また他の説では昔の京都には市中に沢山の川があり、その中に烏丸通の辺りを流れる烏丸川があったとか。そういえば今出川通、堀川通、小川通など川に由来する通り名が沢山あります》

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