冒頭の主題は歯切れよく、エネルギッシュでユーモアもある印象的に始まる。
弦楽器の低い音で出てきて、木管楽器が軽やかに受ける形で進み、滑らかな音の動きの対照的なメロディが続く。シューベルトらしい流麗なメロディで優しさに包まれた、大変に美しいレントラー舞曲風で、やはり木管楽器の活躍が印象的。
シューベルトは友人にはたいへん恵まれていて、当時のウィーンの若い芸術家や知識人たちがみな仲の良い友達であった。シューベルトの作品には友達と騒ぎながら作曲されたものも多く、安レストランのメニューカードの裏に友人が五線を引き、そこへ「魔王」のスケッチが書かれたというエピソードもある。
そんなシューベルトの唯一の息抜きの時間は《シューベルティアード》と呼ばれる、芸術家仲間同士の集まりであった。
《シューベルティアード(シューベルトの集い)》というくらいだから、その集まりの主役は勿論シューベルトである。シューベルトは、この場で自作の曲を自演し仲間内で賞賛を浴びていた。そうして小さな幸福に包まれたまま(?)に、弱冠31歳という若さで殆んど世に知られる事なく、不幸な夭折に見舞われてしまったのである。
シューベルトは、僅か31年の人生にも関わらず多くの作品を遺したが、それらの大部分は親しい友人達の間で演奏されるに止まった。主要な作品が声楽曲や室内楽曲で占められているのは、そのためである。要するにプロの音楽家と言うより、アマチュアのような存在で一生を終えたと言える。
もちろん、本人はアマチュア的な存在で良しとしていたわけではなく、常にプロの作曲家として自立することを目指していた。しかし世間に認められるには、あまりにも前を走り過ぎていた。同時代を生きたベートーヴェンは
「シューベルトの裡には神聖な炎がある」
と言ったそうだが、その認識が一般のものになるには、まだまだ時間が必要だった。
天才というものは、普通の人々から抜きん出ているから天才なのであって、それ故に「理解されない」という宿命がつきまとう。それで30年足らずの人生しか許されなかったとなれば、時代がその天才に追いつく前に一生を終えてしまう。
そんなシューベルトに、ウィーンの楽友協会が「新作の演奏を行う用意がある」ことを仄めかした。それは正式な依頼ではなかったらしいが、シューベルトはプロの音楽家としてのスタートを切る第一歩と感じたようで、その持てる力の全てを注ぎ込んだ交響曲(グレート)を楽友協会に提出した。しかし楽友協会はその規模の大きさに嫌気がさしたか、練習にかけることもなくこの作品を黙殺してしまう。
マーラーやブルックナーの交響曲が日常茶飯事のように演奏される今の時代から見れば、彼のハ長調交響曲はそんなに規模の大きな作品とは感じないものの、19世紀の初頭にあって『グレート』交響曲は標準サイズからは、かなりはみ出た存在だった。
やむなく、シューベルトは16年前の作品でまだ一度も演奏されていない、もう一つのハ長調交響曲(第6番)を提出した。こちらは当時のスタンダードな規模だったため、楽友協会もこれを受け入れ演奏会で演奏されたが、その時すでにシューベルは世を去っていた。
出典http://www.yung.jp/index.php
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