2003/12/23

飛騨の「さるぼぼ」(天下の名泉へpart6)

 天下十刹に数えられる、由緒正しい古禅林・禅昌寺は静寂そのもの。背筋がぴんとのびそうな空間。C国宗朝の様式を伝える数々の建築物や、茶人・金森宗近により設けられた茶室と庭園は見ごたえがある。また、雪舟筆の大達磨像や狩野永徳の菊花屏風など、寺に伝わる貴重な文化財は門前の禅昌寺歴史民族資料館に展示されている。

何度も繰り返すように大した見どころはないから、専らみやげ物の店を冷やかして歩くくらいが関の山だったが、どこまでいっても「栃の実せんべい」(トチの実の天然の渋みを残しつつ、ほんのりざらめの甘さが感じられる素朴な味)に「笹まきずし」(すしめしの上に酢漬けにした紅じゃけとしょうがをのせたもの)、「栗おこわ」、「そばもち」、「赤かぶら」、「羅山パイ」などと大書した幟が目に付く。

民芸品では、なんといっても「さるぼぼ」である。

 

≪さるぼぼは、飛騨高山など岐阜県飛騨地方で昔から作られる人形。飛騨弁では、赤ちゃんのことを「ぼぼ」と言い、「さるぼぼ」は「猿の赤ん坊」の意。近年では、土産として飛騨地方の観光地で多く見られる。

このさるぼぼの源流を辿ると、奈良時代に遣唐使が唐(中国)から伝えた「這子(ほうご)」や「天児(あまがつ)」と呼ばれる形代(日本の人形文化の原点と言われる)が原型であると言われている。最初に当時の貴族の間で”産屋のお守り”として正絹で作られたものが流行し、その後家にある余り布などで作られた物が徐々に民間に広がっていく中で「安産」や「良縁」「子供の成長」「無病息災」などを願うお守りとされていった。

しかし、時代の流れとともに新たな人形が作られたり外国からもたらされたことで、この人形文化が廃れていき、山間部で異文化の影響を受けにくい地域(飛騨地方など)に残ったと言われている。

庚申堂や付近の家の軒先に猿をかたどった人形を吊す例が見られるが、さるぼぼとは異なり体を屈曲させ頭を垂れた姿勢である。

庚申堂のご本尊「青面金剛」には猿が使えており、その猿をかたどった人形と言われる。

庚申信仰によると、人間の体には三尸(さんし)という虫が住んでおり、人の罪を監視している。60日一度の庚申の日に宿主の人間が眠ると体を抜け出し、天帝に罪を報告しに行く。そのため、三尸が出ていけないように庚申の日は徹夜で過ごし、また三尸の天敵である猿を模した人形(「身代わり猿」「くくり猿」など)を家の軒先に吊るしておくことで災難を避けるという風習があった。≫
出典Wikipedia

出典http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/2463/takayamafure-mu.htm
《飛騨は山深く、奈良時代は「下々の下国」と呼ばれたほどの国じゃった。 「山が襞のように重なって見えるから飛騨となった」という事を聞いた事がある。 言葉合わせかもしれんがの。気候は寒いし土地は無い上に痩せとるし、そんな風じゃから租(年貢)が出せんもんで、都に男は雑徭(宮大工)として駆り出され(これが後に飛騨の匠として、町屋造りや屋台などに大きな影響を与えたんじゃ)、少ない人口がまた減って大変じゃったようじゃ。おっと、話がそれたの。

それで残った女子供者が細々暮らしてたんじゃが、そんなくらしじゃから、ええ人形なんか買ってもらえん。買おうにも、昔はおもちゃ屋さんなんて無かったわな。ワシら女の子は、おっかさんやばばさまの作ってくれた人形さで遊んだんや。ま、日本中似たり寄ったりじゃったやろうけどな。土人形や木彫り人形。  布なんかの人形は、残り切れのはぎ合わせでも、そりゃ嬉しかったやろうな。  柔らかいしな。

それがいつの頃からか、しんしょうがようなった(生活が楽になった)頃やろうけど、新(あら)の赤い布で作るようになったんや。何でかって言うと、昔は流行り病が多くて特に天然痘がいたって恐かったもんで、赤い布は天然痘予防になるっちゅうて、人形さ赤い布で作ったんやと。会津の赤ベコや、熊本にも赤うて「あっかんべ~」する首の人形あるってな? 同じ考えやろな?

そしたらその赤っけえ人形さ、まるでさるの赤だんべ(なんちゅうても分らんさな)「猿の赤ちゃん」みたいやっつうて「さるぼぼ」って言うようになったんやさ。 ぼぼさ」って言うんが、飛騨では赤ちゃんの事を意味するんやでな。さるぼぼは、こんな風にして出来たらしいんや》

 みやげ物屋のさるぼぼのキーホルダーなどを23買ったついでに名物の「朴葉みそ」を買い込んだ勢い余って「飛騨コンロ」と備長炭、そして固形燃料までを買ってしまったのは、密かに家に帰ってから朴葉みそでの味噌鍋を自炊で楽しもうという算段であった。

なにしろ二泊目のホテルの方は接客マナーも良いし、サービスには殆んど文句のつけようがなかったが、ある意味どれもが及第点でありながら、これといったインパクトに欠けた点は否めない。それに対して最初の旅館の方は、徒にだだっ広く見えた部屋は実は殺風景なほど何もないために広く見えただけで、実はそれほど広くもないわりにエアコンもなく寒い。また夜には廊下の明かりが眩しく寝付けずと、散々に腹立たしい思いもし

(もう、こんな宿には二度と来んぞー!)

と内心思ったのは、正直なところでもあった。

が、その反面ではあの夕食に出てきた昔ながらの飛騨の風情を受継いでいるかのような、網焼きの飛騨コンロに鉄鍋を乗せて朴葉みそで焼く料理から立ち昇ってくる、あのなんともいえない芳香。また見た目はゴツゴツとしていながら、アルカリ性単純泉で長年かけて磨かれて来たような、ツルツルとした石の肌触りに、野趣溢れる庭園風露天風呂。この二つこそは、今回の下呂体験の中で最も印象に残ったのは事実だった。

凝り性なところのあるワタクシは、旅先で気に入った風習などを持ち帰って、真似てノスタルジアに浸るような事がしばしばあった。岩風呂の方は、どう逆立ちしても疑似体験すら無理だから、普段は料理などは無縁ながら「朴葉みそ」と「飛騨コンロ」に備長炭、さらに「飛騨」と刻印されたヒノキの盃をも買って帰り、ホームセンターで一人用の鉄鍋を買い込んで来たのも、せめてもの飛騨の追体験に、という気まぐれ以外の何物でもなかった。

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