にゃべっちの祖父・ショーイチ氏が岡山県某の床屋の息子として生まれたのは明治末期であった(かつての首相・犬養毅とその息子の法相・犬養剛の血をひくとか訊いた事があったが、出所がホラ吹きの伯父だけに真偽は不明)
心臓に持病のあった父は、仕事を休みがちでそのため家計は楽ではなかったが、ショーイチ少年は殊のほか賢く小学校を飛び抜けた成績で主席で卒業する。家計の事情と病弱な父に代わり、8人兄弟の長兄として弟や妹を養っていかなければならないこともあり、旧制中学校(今の高等学校)進学は半ば以上諦めかけていたショーイチ少年にとって幸運だったのは、大阪・梅田に金満家の親戚が存在した事であった。
事情を伝え聞いた大阪のオジサンから
「そんなに優秀な子なら勿体無いでんな。よっしゃ、ほならワシが引き取って大学まで出したるがな~!!」
というありがたい申し出があり、向学心旺盛なショーイチ少年は一も二もなくこの好意に甘える事となった。
当時から、大阪一の名門として知られる大阪一中(今の府立北野高校)を優秀な成績で卒業したショーイチ少年は、大阪帝国大学(現大阪大学)へ進むと電気工学を学び、卒業後は逓信省に入省。役人として実家に仕送りをする傍ら、独学で電気工学を学び、電気通信事業関係の資格を取得するや数年のお役所勤めにピリオドを打ち、世話になっていた親戚の家の息子との共同出資で、大阪・梅田に電気及び電話工事の会社を設立した。この会社こそが、今や名古屋で中企業までにのし上った「xx社」の母体であったが、当時はまだ昭和の初期で電話など一般家庭には普及していなかった事を考えると、さすがに先見の明があったと言える。
折からの通信需要の風に乗り会社は順風満帆に成長し、学資等なにかと面倒を見てもらった親戚のオジサンへの辞退を押し切り、熨斗をつけたお礼の清算を済ませると名古屋へと移った(大阪から名古屋へ会社を移した経緯は、イマイチ不明である)
さて、名古屋の中心部・中区朝日町(今の栄・錦辺り)に会社を移すや、高級住宅地・白壁に邸宅を構え結婚。お相手は千種区覚王山の由緒正しき家柄の娘である。子供は3人。長男は、子供のころからオヤジのショーイチ氏とは正反対の根っからの遊び人で大の勉強嫌い。授業すらまともに訊いたためしがなかったため、当然のことながら成績が悪く
「なぜ、このようなデキの悪い子が生まれてしまったのか?」
と真面目人間を絵に描いたような、ショーイチ氏を大いに嘆かせる事になる。 2人目は、待望の女の子。これが、後のにゃべっち母だ。こちらは兄とは違い成績優秀。小学校では常にトップ3に名を連ね、中学から大学までを名門お嬢様校『金城学院』で通したが
「ワシの子にしては、まだまだこの程度では物足らん!」
と、トップが指定席だったショーイチ氏の目には、まだまだ不満であったらしい。3人目は男の子だったが、この人は不幸にも幼くして病死の不運に見舞われる。末っ子の少年は父親譲りの秀才で、小学校を主席で通すと名古屋随一の名門『東海中学』(現在の東海高校)へ入学。
「あのコは、オレに似てデキがえーわ」
と、ようやくショーイチ氏も満足だった。
結局はデキの悪かった兄も、最後は弟と同じ電気関係に強い国立の名古屋工業大学へ進み会社の後継ぎとなったのだが、そういった経緯から神童といわれたにゃべっちの小学生時代、母は
「にゃべの天才は、きっとウチの父親や弟に似たのよ!」
と繰り返し訊かされたものだった。
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