2005/05/26

當麻寺(2005GWの古都・特別拝観part9)

参道で土産と地酒「やたがらす」を買い、地酒は自宅に発送して貰う手配を済ませた。地酒を飲んだせいで、汗ばみながら近鉄長谷寺駅まで戻り當麻寺へ。大和八木で橿原線に乗り換え、橿原神宮前で再び南大阪線に乗り換える。近鉄の駅名は「当麻寺」だが、正式な寺名は「當麻寺」になるらしい(どっちにしても、読めない事に変わりはないが・・・)

 

駅から1520ほど歩くと、東大門が見えて来た。逸る気持ちを抑えて、まずは腹ごしらえをしておかなくてはならない。ちょうど東大門の手前に店があり「三輪そうめん」という幟に釣られて入る事にした。腹ごしらえを済ませ、東大門を潜って初めて當麻寺に足を踏み入れる。

 

 

612年、聖徳太子の教えによって、その弟、麻呂子(まろこ)親王が河内に万法蔵院(まんぽうぞういん)を建立しました。その後、親王の夢に従って681年、當麻国見(たいまのくにみ)が役の行者開山の地へ移したのが當麻寺です。

金堂に本尊として弥勒菩薩像が祀られ、役の行者が百済より四天王を飛来させました。次いで講堂、東塔、西塔、そして現在の本堂である曼荼羅堂が完成し、伽藍が整えられました。中之坊は、創建時に役の行者に開かれた道場で、住職の住房「中院御坊」として成立しました。その他、平安期には最大三十六房の僧坊があったということです>

 

 

今では往時の面影はないとはいえ、それでも地味ながらも奈良を代表する大寺院の一つに数え上げられる事は、間違いない。

 

當麻寺中之坊は、當麻寺最古の由緒を伝える塔頭です。白鳳時代(7世紀末)に役行者により開かれた道場で、8世紀、11代実雅法印(中将姫の師)の代に「中院御坊」として成立しました。本尊・導き観音の信仰の他、後西天皇が愛でた大和屈指の名園「香藕園(こうぐうえん)」や丸窓の茶室など文化財も豊富で、當麻寺1300年の伝統を最も伝える寺院として親しまれています>

 

お目当ての庭園「香藕園」と牡丹園も、この中之坊にある。

 

名勝・史蹟庭園「香藕園」・・・片桐石州が改修したことで知られる、大和屈指の名園です。心字池を中心に飛び石を配し、極端に低い土塀で二段構えにして奥行きを持たせ、背後の三重の塔を映えさせています。

 


 

 

歩いて鑑賞する「回遊式庭園」であると同時に、書院の縁より眺める「観賞式庭園」という、2つの面を持たせた巧みな設計になっていて、古くから大和三名園の一として知られます(大和三名園:古くは大乗院・中之坊・竹林院/現在は中之坊・慈光院・竹林院)>

 

<牡丹の大輪の花は、百花の王と賞されます。百獣の王の獅子坐に座る大日如来への供花として、唐の都では多くの寺の庭に植えられました。弘法大師もその姿を目の当たりにされ、現世の浄土を感じられたそうです。中之坊では約1200株の牡丹が、季節になると色とりどりの花を咲かせます。また、牡丹以外にも四季折々の花が咲くことから「花庭園」とも呼ばれています>

 

<奥院五十七代観誉察聞上人が、当院大方丈佛間(慶長十七年建立)の絵天井に牡丹の絵が画かれてあるのに由来して、庭園に数多くの牡丹を植樹し佛前に御供したのが、今日の牡丹園の始まりです。以来、當麻寺山内にも植えられる様になり、今日の盛況を見るに及んでいます>

 

日本でも有数(或いは日本一?)と言われる長谷寺の、あの広大かつダイナミックな牡丹園とは比すべくもないが、それでもこの當麻寺の牡丹園は、非常に和の情緒を感じさせる見事なものだった。

 

春の陽光が注ぐ庭園をノンビリと散策して再び境内へ出ると、今度は奥の院へと向かう。塔頭らしき寺院が幾つかあり、どれが奥の院の入り口か迷ってしまいそうなほどである。

 

<當麻寺塔頭奥院は、浄土宗総本山知恩院の「奥之院」として建立された寺で、最初は往生院と呼ばれていました。知恩院第十二代、誓阿普観上人が知恩院の御本尊として安置されていた法然上人像(重文)を後光厳天皇の勅許を得て、応安三年(1370)当地に還座して建立した寺で、以来浄土宗の大和本山として多くの人々の信仰を集め、今日まで護持継承されて来た名刹です>

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