2005/05/29

京都四閣(2005GWの古都・特別拝観part12)

ナント驚いた事に、次にスケジューリングしていた特別公開の寺院に向けて参道を出るところまで、付いて来たのである。このしつこさは異様というしかなく、いざとなった場合に「治外法権」なのだという思いが頭を過ぎり、幾分かの無気味さを感じたものであった(あくまで、このパラノイア気質のある坊主個人のパーソナリティによる、例外的な行動であったと信じたいが・・・)

 

それにしても、この坊主の態度の悪さには呆れたあの目付きの悪さといい、言葉遣いといい、まるでゴロツキというしかない。そもそも、あそこまでの執念で撮影禁止に拘る姿勢は、一体なんなのか?

 

減るものではないし、書画骨董であればフラッシュの光が影響を与えるリスクがあり得るというような理屈はわからなくはないし、そういった説明であればある程度納得もいくが、庭園を撮影する事によってどんな実害があるというのか?

 

しかも、フラッシュを焚いているわけでもないから、他の拝観客に迷惑をかけているわけでもないのである(そもそもこの時は、周囲に殆ど拝観客が居なかった)

 

気の弱い相手なら、あのように脅してしまえば大人しく止めてしまう事だろうが、目的は果たせても自らのイメージダウンになるだけだ。折角の素晴らしい寺院であり庭園だけに、それに見合った坊主の教育をして貰いたいものである(結構な年配だったが、まさかアイツがそれなりの位についているような事は、あるまいな?)

 

撮影禁止がルールだというのであれば、対外的に納得のいく理由を説明すべきではないのか?

 

この寺院に限らず、京都や奈良の歴史的な寺社は決して特定の個人や団体の所有物ではなく、広義には日本人共有の遺産なのである。坊主らはあくまで、代表してそれらの管理を与らせてもらっているに過ぎないという謙虚な気持ちを忘れるべきではないし、それが坊さんの勤めだと信ずる。

 

数年後、この寺のWebページを見ると「新住職」として出ていた写真が、記憶にあるあのゴロツキに非常にそっくりに見えた。あくまで、錯覚だと信じたいが・・・

 

アホな坊主と、くだらないやり取りをして大いに気分を害しながら、それでも予定の「芳春院」へ移動した。以前にも触れたように、27もの塔頭寺院を要する大徳寺とはいえ、常時公開しているのは「龍源院」、「瑞宝院」、「大仙院」、「高桐院」の四寺院のみである。が、毎年恒例の春・秋の特別拝観の時期には、必ずと言ってよいほど普段は非公開の寺院が、特別に公開されるのが通例だ。

 

これまでに、ワタクシが知っているだけでも「孤蓬庵」、「真珠庵」、「興臨院」、「黄梅院」、「芳春院」(他に「総見院」、「聚光院」といった寺院も、以前に公開していたような気がする)などが特別公開されていた。当初は、常時公開されている上の四寺院が特に大きく、それらに比べ他の非公開の寺院は規模も小さく見所が少ないのかと思い込んでいたが、特別公開で必ずしもそうでない事がわかってからは、この時期に京都に行く場合は最優先して見て廻るようにしていた。そして、この年のGWに特別公開されていたのが、冒頭で紹介した「芳春院」であった。

 

TVを観ないワタクシは、まったく知らなかったNHKの大河ドラマ「利家とまつ」が放映されてから、特に注目度が上がったようだった。

 

<大徳寺の最北部に位置する芳春院は1608年、玉室宗珀を開祖として加賀の前田利家夫人松子が、子供の利長・利常と共に建立。松子の法号の芳春院と名付け、前田家の菩提寺とした。多くの公家・武士・茶人・文化人が集まり、寛永期を代表する文化的サロンであった。大書院には、近衛文麿公が京大在学中に書斎として使った部屋が残されている。前田利家の正室・まつ、戦国乱世にあって家の再度の危機を聡明と熱意で救い、前田家の繁栄を築き上げた>

出典https://www.ntv.co.jp/kyoto/backnumber/

 

<利家亡き後、剃髪して芳春院と号し、自ら江戸に人質として入り15年後金沢城に帰り71歳で没しました。像からは、優しさと凛とした強さが感じられます。京都大徳寺の22塔頭の一つ、芳春院はその名の通り「まつ」が息子とともに、慶長13年(1608年)に建てた前田家の菩提寺です。さすが女性の優しさが漂い、花岸庭の白砂の海、楼閣の呑湖閣も和らぎを感じます>

 

<大徳寺の総門を潜り禅宗らしい端正な境内を北に進むと、ひときわ優しい響きを持つ「芳春(ほうしゅん)院」に行き着く。加賀百万石の祖・前田利家の妻まつの法名をつけた菩提(ぼだい)所(1607年創建)として知られる、この塔頭の庭園は枯山水庭園「花岸庭(かがんてい)」と「呑湖閣(どんこかく)」を望む池泉回遊式庭園の2園からなる。 


 本堂に上がると、まず目に飛び込んでくるのが南側に面する花岸庭。白砂が面積の大部分を占め、眩しく照り返す。奥まった東南隅に岩山が配され、大海原が広がるかのようなスケールの大きさを感じさせる。89年、「昭和の小堀遠州」と称された元大阪芸術大学長の作庭家、故中根金作氏が手掛けた。以前は、まつが好んだという桔梗(ききょう)が一面に茂る庭だったが「禅寺らしい趣に」と改修され、僅かに残された桔梗が往時の名残をとどめる>

 

大徳寺といえば、どの寺院も枯山水の庭園が素晴らしい事で知られるが、この「芳春院」の「花岸庭」も例外ではなく、また一つ新たな驚きがあった。そしてお目当ては、何といっても滅多に観るチャンスのない「呑湖閣」である。

 

<一方、廊下伝いに北側の庭に廻ると、佇まいは一変する。深い色を湛える飽雲池(ほううんち)を中央に据えた庭は、湿潤そのもの。池を渡る打月橋(だげつきょう)、そして金閣、銀閣、飛雲閣(西本願寺境内)と並び「京都四閣」と称される呑湖閣を配した構成は"元祖"小堀遠州の作。呑湖閣は、優美なつくりの中に「琵琶湖の眺望をも呑み込む」という壮大さを秘め、本堂に飾られたまつの肖像画のイメージとも重なり合う。 


江戸時代と現代を代表する作庭家による2園は、実に対照的な美を競っており興味深い>

 

池の中央に浮かび煌びやかに燦然と輝く金閣寺、銀沙灘と向月台というこれ以上ない名脇役を従え、あの古色蒼然たる佇まいがワビサビの境地に誘う銀閣寺と、それぞれ特徴豊かだがこの「呑湖閣」の魅せ方も、それらに引けを足らないような小堀遠州絶妙の才能と言えるだろう。

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