ヒムロ
『A高』きってのご意見番ヒムロと『A高』一のじゃじゃ馬お騒がせのお嬢とは、当然の事ながら犬猿の仲だった。2人の成績が常に伯仲していたのも、それに拍車をかけたのかもしれない。
『B中』時代には転校後、半分以上の試験でトップを取り、にゃべが
(自分以外に、もう一人の天才がいた)
と思っていたヒムロも、『A高』ではトップの壁が厚く3位が最高だった。
この男は、元々秘密主義の上に偏屈な性質のせいで友達が殆どいなかったから、同じクラスの学生以外は誰もがその受験先すら、よく知らなかったらしい。かくいう自分も、高校時代は最初の試験発表の時に偶々顔を合わせた後は、1度も話した記憶がなかった。
周囲からライバル視された中学時代も、1度か2度しか話した記憶がなく、そのいずれも短い立ち話で終わっているが、明らかに波長の合わなさを感じていた。『B中』時代には色々な因縁があったが、『A高』では文系と理系に分かれた事も影響し、殆んど接触のないままに終わったのは寧ろ幸いだった。
だから、例によって新聞の合格発表を見るまで、彼がどこを受験したのかも知らなかったし、もっと正確に言うなら「ヒムロ」という存在そのものを忘れていた、と言うべきだろう。
そんな状況だから、T大合格発表でマザー(理Ⅲ)やカトー(文Ⅰ)、コンドー(理Ⅰ)の名を発見して
(この辺りは、順当だ・・・)
と納得しつつ、『文Ⅱ』で変人・ヒルカワの名を目にし
(ナヌ?
ヒルカワがT大?)
と驚いた後で『理Ⅰ』に、ヒムロの名前が出て来たのを見た時は
(そーだった!
そーいや、アイツがいたんだった!)
と、複雑な唸りを発したものだった(当初「T大合格者5人」と訊いた時は、てっきり四天王+サトジュン、或いはお嬢と思い込んでいた)
元々がコテコテの大阪人だから、てっきり『O大』か『K大』を受験したのだろうとの思い込みがあったせいか
(一向に名前が出てこないところを見ると、案外K大辺りに落ちたのか?)
と密かにほくそえんでいたのが、あてが外れた気分だ。とにもかくにも『B中』同窓生の中では、唯一の『T大』合格者となったわけであるから、個人的な感情は抜きにすればやはり、その実力はさすがと言える。
コンドー
コンドーのセンター1次は900点超えで「T大文Ⅰレベル」と言われたから、さすがに「四天王」の名に恥じぬ高得点だ。そのコンドーの本命は『理Ⅰ』で、もちろん合格した。
『A高』四天王のコンドーとはいえ、全国から選りすぐりの天才秀才が集まってくる理Ⅰともなれば、うかうかしてはおれないだろうが、やはりコンドー並みの奇人変人が揃っているとしたら、寧ろそちらの方が恐ろしい気もする。
カトー
カトーのセンター1次の920点台は、全国30万以上の受験者(同学年人数は、受験者の3倍強の100万人以上)の中で、600番台辺りに位置した。
『文Ⅰ』と『C大・法』は、新聞で確認済み。『W大・政経』にも合格という噂が流れたものの、本人が
「政経なんて、受けるわけねーし」
と言下に否定した。
この男こそは、実に賢過ぎた。誰よりも英語の得意な彼が、早々に英検準一級に合格したのは有名だったが、いつの間にか「文Ⅰ」に合格とは語学だけでは、彼の頭脳には物足りなかったのかもしれない。
御曹司
A市から名古屋へ行くための電車に乗り、15分ほどゴトゴトと揺られていると、とある駅のホームに「タカミネ医院」の看板が見える。子供の頃から何度も漫然と目にしていた、この「タカミネ医院」の御曹司こそ、その抜きん出た頭脳もさることながら、それ以上に温和な人柄において同級生の誇りである我らが生徒会長・御曹司であった。
実家は内科で代々医師の家計というだけでなく、近くには叔父が耳鼻科を開業しているなど、元々が医者の家系らしい。
マザーという、数十年に一度の女傑が居たがための2位であり、通常の年であればトップだったのは間違いない。入学当初からマザー、カトーとともに『T大進学』が期待されていたが、医者の長男としての御曹司が選んだ道は四天王の中では唯一、T大ではなかった。
当初はマザーとともに『理Ⅲ』の受験も噂されたが、蓋を開けてみれば地元の『N大医学部』を受験。私立が『K大・医学部』と『N医科大・医学部』で、いずれも合格。センター1次の940点台という高得点は、全国30万以上の受験者でも、トップに近い位置であるのは間違いない。
御曹司にしてみれば、間違いなく家の跡を継いで開業医になるのだろうから、わざわざ冒険をしてまで『理Ⅲ』を受験する必要がなかった・・・ともいえる。
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