2005/05/23

知恩院三門(2005GWの古都・特別拝観part6)

まあこちらとしては、あくまで見せてもらう立場だから贅沢は言えないが、地元近郊に住んでいなくては余程運がよくない限り、こうした公開にタイミングを合わせるのは難しいだろう。

 

五重塔や三門というものは、素人目にはあの中はガランドウのように見えてしまいがちだが、実は普段は非公開にしているあれらの中こそ、本当に重要なものが収蔵されているらしいのである。

 

ともあれ「知恩院三門・特別公開」と聞いては、万難を排してでも行かなくてはならない。と勇んで、三門に向かわんとした時であった。三門を目の前にしたところで、我が一日限りの相棒が再びネを上げたのである。

 

「疲れたー。もう、歩けないよー」

 

ちょうど、トイレの向かいに置いてあったベンチに腰を降ろすと、グッタリした様子である。

 

「しょうがないね。じゃあワタクシが観ている間、休んでるかみやげ物でも見てたら?」

 

「うーん。  でも、あん中(三門の事)って、滅多に見られへんのやろ?

折角やし、やっぱ私も行くよ」

 

と重い腰を上げ、いよいよお目当ての三門へと向かう。

 

<一般には山門と称するのに対し、三門と書く。空・無相・無願の、三つの解脱の境地を表わす門、つまり三門である。

元和七年(1621年)に建立、重層入母屋本瓦葺きで、その構造・規模においてわが国現存の木造建築として最大の楼門である>

 


 

拝観料は「800」と高かった。特別公開だから仕方がないが、三門だけで800円なのである。

 


 

城の中のような、狭くて険しい階段を2階へ上がると、普段は見ることが出来ない仏像だけでなく、壁や天井一面に極彩色の画が描かれてあり、それらの説明をするというので、てっきり坊さんの含蓄ある話が聞けるものと楽しみにしていたら、明らかに派遣会社などから来た感じのニーちゃんが、ヘタクソな説明を始めたのにはウンザリしてしまった。むしろ、目の前まで新緑に覆われた高い三門からの素晴らしい眺望の方に目を奪われた。

 

三門を降りて、境内へ向かう階段は一段一段が非常に急峻であり、階段とは別に設けられたスロープからも登り降りが出来たが、あれだけ疲れたと云っていた相棒が、何故か「この階段を登りたい」と言い出したため、えっちらおっちらと上がっていく。境内をグルリと周回し

「この上に除夜の鐘で有名な、大鐘楼があるんだぞー」と教えると「観たい観たい」  という事だったので、さらに石畳の階段を上がった。

 

一体、何人で撞くのかと思えるくらいの重厚な大鐘楼(重文)である。

 

<高さ3.3メートル、口径2.8メートル、重さ約70トンと、京都方広寺、奈良東大寺と並ぶ大鐘として知られているこの大鐘は、寛永13年(1636)知恩院第32世・雄誉霊巌上人の時に鋳造された。当初、この鐘を吊る環が何度造り替えても、その重さに耐えかねていたところ、ある日、刀匠正宗・村正兄弟が知恩院へ参詣の折り、この事を聞き兄弟力を合わせて精魂込めて鋳造し、ついにこの大鐘を吊るす事ができたと伝えられる。

 

この大鐘を支える鐘楼は延宝6年(1678)、知恩院第38世・玄誉万無上人の時に造営された。入母屋造本瓦葺、方四間、吹放屋形式で天竺様式である。この大鐘が鳴らされるのは、法然上人の御忌大会(4月)と大晦日の除夜の鐘だけである。とりわけ除夜の鐘は、テレビ「ゆく年くる年」の中継で広く知られている>

 

知恩院を出ると、さらに蹴上まで歩き南禅寺へ向かってインクラインを通っていく。



 

<京都と琵琶湖を結ぶ水路「琵琶湖疎水」は、水道用水の確保と船での交通の充実を図るために、明治時代に建設された。




インクラインは、船が上がれない急な坂を貨車を使って引っ張り上げるための線路の跡である。今は使われなくなった線路と記念に残された台車と船が、明治時代に京都を水上輸送都市にしようとした技術者達の夢の名残をひっそりと伝えている>

 

桜のシーズンには人でごった返しているが、この日は時間が遅かったせいか比較的閑散としていた。

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