石の宝殿は、人工的な巨石が残る遺跡などに付けられた名称。兵庫県と大阪府に5ヵ所ある。
石宝殿古墳は、大阪府寝屋川市の高良神社裏山にある古墳のこと。露出した石室から石宝殿古墳と呼ばれ、国の史跡に指定されている。
生石神社の石宝殿は、兵庫県高砂市・宝殿山山腹の生石神社に神体として祭られている巨石。鎮の石室(しずのいわや)、天の浮石(あめのうきいし)または単に浮石とも。
2014年(平成26年)10月6日に、「石の宝殿及び竜山石採石遺跡(たつやまいしさいせきいせき)」として、他の史跡群とともに国の史跡に一括指定された。
この生石神社の石の宝殿と、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾を総称して「日本三奇」と呼ぶ。
幅6.4m、高さ5.7m、奥行き7.2m。重さは推定500トンを越える。竜山石として知られる凝灰岩の岩山の中腹を削って作られており、三方を加工前の岩盤に囲まれている。
誰が、いつ何の目的で作ったものであるのかは、学術的に判然としていない。謎を解明するため、高砂市教育委員会が、大手前大学史学研究所の協力で各種の調査に着手している。2005年から2006年にかけては、レーザーによる3次元計測を実施し、周囲の岩盤も含めた形状をくわしく調べた。
形状・特徴
主部は平たい2つの直方体を縦向きにして、ひとまわり小さな直方体を挟み込んだような形状であり、側面のひとつにピラミッドの頂上を切ったような形状の突起がある。後述の歴史的記述にもあるように、家を横倒しにしたような全容をしている。また旧型のブラウン管テレビに似ているという人[誰?]もいる。
下部の岩盤は大きくくぼんでおり、池になっている。社伝によれば、この池は旱魃の際にも枯れず、水位は海の潮位と連動するとされる。「浮石」と呼ばれるゆえんは、わずかにつながった底部中央の支柱状の部分が巨石自体の死角になり、巨石が池の上空に浮かんでいるように見えるためである。
岩の上部には、加工当時にはなかったとみられる多くの雑木が生えている。
周辺
周囲の岩盤と巨石との間は大人が1人通れる程度の幅で、周回が可能である(拝観料が必要)。また宝殿山の頂上(大正天皇行幸の碑が建つ)に登れば、上部から全容をのぞき見ることができる。
伝説
生石神社の社伝に、大穴牟遅神と少毘古那神の二神による伝説が伝えられている。二神が出雲国から播磨国に来た際、石造の宮殿を建てようとして一夜のうちに現在の形まで造ったが、途中で播磨の土着の神の反乱が起こり、宮殿造営を止めて反乱を鎮圧している間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができなかった。しかし二神は、宮殿が未完成でもここに鎮まり国土を守ることを誓った、というものである。
南北朝時代の地誌『峯相記』では、単純に「天人が石で社を作ろうとしたが、夜明けまでに押し起こすことができずに帰っていった」と解説されている。
一方、713年から717年頃の成立とされる『播磨國風土記』の印南郡大國里條にある記述には、
「原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸
弓削大連 守屋 所造之石也」
書き下し:原の南に作り石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連(ゆげのおおむらじ)の造れる石なり。
とある。「聖徳の王」は聖徳太子、「弓削の大連」は物部守屋と考えられているが、聖徳太子が摂政であった時代には物部守屋はすでに死亡していた(日本書紀による)と伝えられているため、この記述は矛盾をはらんでいるとされる。
エピソード
幕末にシーボルトが訪れ、詳細な3枚のスケッチを残している。この絵は著書『NIPPON』の第一冊目に収録されている。
松本清張は著書『火の路』において、奈良県橿原市の巨石・益田岩船との関連を指摘している。
六甲山の石宝殿
六甲山の石宝殿は六甲山頂から東に1kmの峰の上にあり、1613年(慶長18年)に西宮の氏子により建立された。分水嶺上で、建立以前から霊場として修験道場であったようで、近世以降は雨乞いの場でもあった。現在も神社として機能している。
生石神社(おうしこじんじゃ)は、兵庫県高砂市・宝殿山山腹にある神社である。
「生石」の読みは本来「おうしこ」であるが、「おおしこ」・「おいしこ」と誤表記・誤読されている場合もある。
社伝では、崇神天皇の時代、国内に疫病が流行していたとき、石の宝殿に鎮まる二神が崇神天皇の夢に表れ、「吾らを祀れば天下は泰平になる」と告げたことから、現在地に生石神社が創建されたとしている。
石の宝殿について『播磨国風土記』の大国里の条には
「原の南に作り石がある。家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされている。」
という意味の記述がある。8世紀初期には6~7世紀頃に人の手で造られたと考えられていたことになる。風土記が一般に流布されたのは江戸時代後期からであり、それまでの石の宝殿に関する文献で風土記の内容を継承したものは見られない。『万葉集』巻三、生石村主真人の歌にある志都乃石室は、石の宝殿のことであるとも言われるが定かではない。
石の宝殿は8世紀以前からあったことになるが、生石神社は『延喜式神名帳』や国史に掲載されておらず、『播磨国内神名帳』の「生石大神」が文献上の初見であるとされる。
1579年(天正7年)、羽柴秀吉が三木合戦の折、神吉城攻略のために当神社を陣所として貸与するよう申し出たが、拒否されたために焼き討ちに逢わせた。(当時の宮司は、神吉城主の弟であった。)
焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いの時に西軍石田三成方の勇将大谷吉継が陣鐘として使用した。敗戦の結果、徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺(大垣市)に寄進している。鐘の表面には、応永26年乙亥(1419年) 「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と刻まれている。
出典 Wikipedia
●ポリネシア語による解釈
石の宝殿は、高砂市阿弥陀町にある古代の石造物(高さ5.7メートル、横幅6.4メートル、奥行き7.2メートル)で、古代から石材の切り出し場であった竜山という丘陵の中腹の凝灰岩の岩盤を削って、横倒しの家形の直方体としたもので、生石(おうしこ)神社のご神体となっています。
この「ほうでん」、「おうしこ」、「たつ」は、マオリ(ハワイ)語の「ホウ・テ(ン)ガ」、HOU-TENGA(hou=dedicate or initiate a person etc.,establish by
rited;tenga=goitre,Adam's apple)、「(神に)捧げられた・喉仏のような(突起物。石の宝殿)」(「テ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「テナ」から「テン」、「デン」となった)、「オウ・チコ」、OU-TIKO(ou(Hawaii)=hump up;tiko=stand out,protrude)、「突出した・瘤(のような石。それをご神体とする神社)」、「タ・ツ」、TA-TU(ta=dash,beat,lay;tu=fight with,energetic)、「(石材を)盛んに・切り出した(山)」の転訛と解します>
<由良港の南、淡路島の最東南端に、生石崎があります。生石崎と和歌山市田倉崎を結ぶ紀淡海峡の最狭部は幅約10km、大型船が航行できる生石崎と沖の島との間の由良瀬戸は幅約4kmで、時速約4.5kmの激しい潮流が流れています。この「おいし」は、マオリ語の「オイ・チ」、OI-TI(oi=shudder,move
continuously as the sea;ti=throw,cast)、「(激しい潮流の中に)放り出されて震えている(岬)」の転訛と解します>
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
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