相変わらず容赦なく降り続けている雨の中を、興福寺に向かって歩く。
<京都山科の藤原鎌足私邸に建立された、山階寺が始まり。飛鳥を経て、平城遷都に伴い現在地に移り興福寺と号した。
藤原氏の氏寺として隆盛し、平安時代には大和国を支配。僧兵を擁し、比叡山延暦寺とともに南都北嶺[なんとほくれい]と呼ばれ畏れられた>
平家の南都焼討ちで大半の堂塔を焼失したが、鎌倉時代に復興。その後も堂塔は焼失と再建を繰り返したが寺勢は徐々に衰え、明治の廃仏毀釈では崩壊寸前に追い込まれた。それでも東金堂[とうこんどう](国宝)、五重塔(国宝)、北円堂(国宝)、三重塔(国宝)、南円堂(重要文化財)などが残り、優れた仏像を多数所蔵する>
出典 Wikipedia
ドッシリとした量感を伴った重厚な、それでいて美しい曲線に包まれた日本で2番目に高い五重塔が見えてきた時は、懐かしい恋人に出会ったような嬉しい気分である。
<「五重塔」は焼失と再建が繰り返された、室町時代の復古建築です。
時代が下ると寸胴に近い形になりますが「興福寺の五重塔」は、スマートな古代の姿となっております。奈良公園のシンボルである「五重塔」も「廃仏毀釈」時代には売りに出され、それが現在では想像すら出来ない「相輪」(五重塔など仏塔の最上部にある金属製の部分。下から露盤・伏鉢(ふくばち)・請花(うけばな)・九輪(くりん)・水煙・竜舎(りゆうしや)・宝珠で構成される。九輪だけをさしてもいう。インドの仏塔の傘蓋(さんがい)が発展したもの)をスクラップにした程度の金額で決定。そこで購入者が「五重塔」に火を付けて、上部の金物だけを回収しようと計画しましたが、近くの人家に類焼する恐れがあると反対され、無事に残されたという嘘のような本当の話であります>
国宝館は仏像を始め、仏画、書跡など国宝だけでも一体、何十点あるのかわからないくらいの物凄さだが、特に仏像は圧巻だ。
<明治の「廃仏毀釈」に一番打撃をうけたのは「興福寺」で、多くの仏具・仏像が消滅、さらには建物が壊されました。現在でも「鐘楼」がなく、奈良の大寺としては到底考えられません。
更に天平時代の広大な境内地が、庶民の憩いの場「奈良公園」と変わったのであります。鎌倉時代に制作された国宝彫刻24のうち、11が「興福寺」にあります。もし「廃仏毀釈」がなければ、数多くの国宝級の仏教美術が存在した事でしょう>
<光明皇后が母橘夫人(ぶにん)の菩提を弔うために建立された「西金堂(江戸時代に焼失)」には「八部衆像」、「十代弟子像」「金剛力士像」、「天燈鬼・龍燈鬼」、「法相六祖像」が安置されました。脇役ながら、総て国宝彫刻であります。惜しい事に、今は亡き主役だった本尊の釈迦如来像は超国宝級の仏様だった事でしょう>
<「東金堂」は、古代建築の特徴である「白壁」が眼に沁みます。「興福寺」は、飛鳥時代の飛鳥寺のように「三金堂」方式(真ん中に塔があり、北側、西側、東側に金堂が三つある伽藍方式)です。
なぜ「三金堂式」にしたのでしょうか。飛鳥寺の蘇我氏に、対抗しての事でしょう。柱の間は端から9・10・14・14・14・10・9尺です。創建当時は、中央の柱間の立面空間(黄線枠)が正方形となりますが再建時、禅宗様などの影響で柱は高くなり、立面空間は矩形となりました>
雨が降り続く中、興福寺を出て猿沢の池の周りをグルリと周回して、翌日の日程に備えて京都へ移動。八条東口から、徒歩3分のホテルに滞在した。
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