「太秦」と書いて「うずまさ」と読む。
普通には読めないものの、東映映画村や国宝指定第一号「弥勒菩薩半伽思惟像」で有名な「広隆寺」で有名な地だが、この「太秦」の由来を調べてみると、あるわあるわ。
解釈1「太秦なる地名の由来」
「太秦」と書いて「うずまさ」と読ませる。
読むのではなく、まさに「読ませる」
「太秦」なる地名の起こりについて、幾つかの説を紹介しよう。
「日本書紀」によると、秦酒公の説話として
{酒公が技術の優れた者を率いて、堅織りの絹を織り上げ献上品として天皇に奉ったところ、天皇は殊の外喜ばれ酒公に"禹豆麻佐"の称号を賜った}
と記されている。
この「禹豆麻佐」という読みを、後に借字した「太秦」という文字に使用した。
そうした事が古記ついても秦氏を名乗り、太秦を地名としてそこを領したと記されている。
《古代の朝鮮半島には、三韓時代(辰韓・弁韓・馬韓)がありました。
この三韓の一つであった辰韓の国を倒して成立したのが新羅と言う国で、秦氏と言われる人たちはこの新羅の国から日本に渡来してきた人たちと言われています。
氏名の由来として「ハタ」の語源は新羅語であり、新羅語で「ハタ」は「海」を意味し朝鮮半島から海を渡ってきた人、ハタビト=海人こそが源義であるという説があります。
また、平安時代初期の815年に編纂された「新撰姓氏録」に「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載がありますが、これは秦氏自らが権威を高めるために王朝の名を借りた、というのが定説になっています。
また、秦氏の祖先の活躍は応神天皇の時代に始まり、雄略天皇の時代にも祖先が活躍したという伝説があります。
しかし、歴史的な活動が顕著に認められるのは、推古天皇の頃の秦河勝(はたのかわかつ)からです》
※ http://www.kyotokanko.co.jp/index.html 引用
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解釈2「太秦」 という地名
《太秦という地は、推古天皇11年に秦河勝が聖徳太子から頂いた仏像を奉じて建てたという広隆寺のある近辺で、平安京(ソロモン京)の源となる渡来人「秦族」が築いた山背の国(やましろのくに)葛野の地のことである。
この地は古くは葛野郡葛野郷にあたり、葛野県主や賀茂県主の一族が居住してきたが、やがて秦氏が渡来して開発した。
平安京以前の事である。
伝説によると、万里の長城を築いた始皇帝の後裔と称する融通王が、百二十県の人民を率いて帰化したのが秦氏の始祖といわれ、共にやってきた技術集団が織物の技法を伝えた。
融通王は倭名を「弓月の君」と称したが、朝廷に絹帛を多く献じたので「はた波多」(はた機)の名を与えられた、との事。
太秦の地名、語源については日本語でウヅマサ、もっと古くはウツマサと清音に発音していたとの事だが、用いた漢字が難しく地名の意味も分かりにくい。
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解釈3 ポリネシア語によるアプローチ
京都市右京区太秦は、御室川の西、双ケ岡(ならびがおか)の南の地域です。
北半部は低位洪積段丘上、南半部は沖積平野で、京都盆地北西部最大の横穴式石室を持つ蛇塚古墳や広隆寺は、この段丘端付近に立地しています。
太秦一帯は、平安京の造成に貢献した秦氏の根拠地で『日本書紀』雄略15年の条に
「秦の民を聚(と)りて、秦酒公(はたのさけのきみ)に賜ふ。
公、仍りて百八十種勝を率いて、庸調の絹兼(きぬかとり)を奉献りて、朝廷に充積む。
因りて姓を賜ひて禹豆麻佐(うつまさ)と曰ふ」
とあります。
この「うずまさ」は
(1) 「ウズ」は「埋む」で、河川の氾濫で湿地が埋められ高くなった場所
(2) 湿地や丘陵を埋め、削って整地した場所
(3) 「ウズ(珍、厳、貴)・マサ(姓で上位にあるもの)」の意とする説
などがあります。
この「うずまさ」は、マオリ語の
「ウツ・マタ」、UTU-MATA(utu=dip up water,spur of a hill;mata=heap,deep swamp)、「丘陵の突端(または湿地が乾陸化した場所)」
の転訛と解します。
解釈4 産業集団の頭領説
渡来人「秦氏(はたうじ)は、チャイナより北九州・山陰を経てこの地に住み着いた。
彼らは、日本に色んな文化や産業を日本に持ち込んだ。
当時『部』は産業集団を表し、途中『園部』、『綾部』などの地名が存在するのは、そのためである。
太秦の地名の語源は「大々秦」、すなわち大秦氏の総まとめの意味から太秦と呼ぶようになった、とされている。
-----------------------------------------------------解釈5 地形関連説
ウズマサは(us-masar:湾の(岸辺の)草原)と思われる。
縄文中期の、温暖化が進んだ時代には雨量も多かったのでは、また地形的には大山崎の天王山と石清水八幡宮のある男山との間が塞がっていたと考えれば、京都市街の西南部は大きな湖だった事は容易に想定できる。
古代人は塩分の有り無しに関わらず、湖も海と考えていたようだ。
地形からも、分かるのではないか。
※ http://chimei.koiyk.com/index.html 引用
ちなみに京都で有名なこの地名ですが、大阪の寝屋川市にも同じ「太秦」の地名がある。
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