2003/09/21

東福寺もみじへの道(京都の紅葉part1)


 グウタラ学生だった頃から春の花見だけは欠かさなかったが、紅葉狩りには一向に興味を示す事はなかった。理由は簡単で、花見では桜の美しさよりは寧ろ昼間から大手を振って酒を呑みながらバカ騒ぎが出来るからで、酒とは無縁でありまた薄ら寒いばかりの紅葉狩りは、風流解さない身には興味の対象とは成りえないのである。

紅葉で思い出す事と言えば精々、京都御苑や岡崎公園一帯の銀杏の枯葉を踏みしだいて友とクダらぬ事をダベりながら、足元に纏わりついてくる鳩を脅かしてみたり、或いは美しい女学生と比叡・八瀬遊園辺りへドライブへ行きながら「この辺りは、ロクな喰いもの屋がないな・・・」などとブツクサと小言の百曼陀羅を並べ立てているだけの、なんとも無粋な回想ばかりである。

その後、ようやく花の美しさだけではなく

(花は咲かなくとも、葉っぱだけでも花よりも美しい変身の仕方があるもんだ・・・)

という一つの日本の美の形に目覚めるまでには、実に10年程の月日の経過を待たねばならなかった。

思い立ったら直ぐに行動に移すのが主義で11月、つまり前回夏の奈良・京都旅行から僅か3ヵ月後に三たび京都へ向かう事になる。そもそもの切っ掛けは、当時愛読していた雑誌に掲載されていた、JRの《そうだ、京都へ行こう》のキャンペーン広告で見た『東福寺』の、あの境内が一面真紅に染まった写真を見たところからであった。

(う~む・・・これは是非とも実物をこの目で見なければ・・・)

と唸った末に、早速お目当ての『東福寺』へと向かった。

<東福寺は、京都市東山区本町にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。山号を慧日山(えにちさん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は九条道家、開山(初代住職)は聖一国師円爾(しょういちこくしえんに)である。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院である。


境内には宋から伝わった「通天モミジ」と呼ばれる三葉楓(葉先が3つにわかれている)など楓の木が多い。元は桜の木が植わっていたが「後世に遊興の場になる」という理由で伐採され、楓の木が植えられたものである。また明治時代の日露戦争の際には寺域が接収され、ロシア兵捕虜の収容施設となっていた。
 
東福寺は京都市東山区の東南端、伏見区と境を接する辺りにある。この地には延長2年(924年)に藤原忠平によって建てられた藤原氏の氏寺・法性寺(ほっしょうじ)の巨大な伽藍があった(法性寺は、JR・京阪東福寺駅近くに小寺院として存続している)。嘉禎2年(1236年)、九条道家(摂政・鎌倉将軍藤原頼経の父)は、この地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願、寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。


5丈の釈迦像を安置する仏殿の建設工事は延応元年(1239年)から始めて、完成したのは建長7年(1255年)であった。高さ5丈の本尊釈迦像は元応元年(1319年)の火災で焼失、14世紀半ば頃に再興されるが明治14年(1881年)の火災で再び焼失している。なお、東福寺には巨大な「仏手」(現存部分の長さ2メートル)が保管されており、旧本尊像の左手部分のみが明治の火災の際に救い出されたものと推定されている。これは創建時の本尊ではなく、14世紀に再興された本尊像の遺物であるが、本尊の「高さ5」というのはあながち誇張ではなかったことがわかる。

九条道家は開山(初代住職)として、当時宋での修行を終えて帰国していた禅僧・円爾(えんに、12021280)を迎えた。円爾は駿河国(現在の静岡県)の人で、嘉禎元年(1235年)、宋に渡って径山(きんざん)興聖万寿禅寺の高僧・無準師範(ぶしゅんしばん、11781249)に入門。印可(師匠の法を受け継いだというお墨付き)を得て仁治2年(1241年)、日本へ帰国した。円爾は初め九州博多の承天寺に住したが、同寺が天台宗徒の迫害を受けて焼き討ちされたため、九条道家の援助で上洛、東福寺の開山に迎えられた。

東福寺の建設工事は30年以上に亘って続き、法堂(はっとう、顕教寺院の「講堂」にあたる)が完成したのは文永10年(1273年)であった。その後、元応元年(1319年)の火災を始め度々焼失するが、九条家、鎌倉幕府、足利家、徳川家などの援助で再建されてきた。昭和51年(1976年)、韓国の全羅南道新安郡智島邑道徳島沖の海底から、大量の荷を積んだジャンク船が発見、引き揚げられた(新安沈船)が、積荷木簡の中には「東福寺」、「十貫公用」などの字が見られることから、この船は焼失した東福寺の造営料を名目として、鎌倉幕府公認で派遣された唐船(寺社造営料唐船)であることが推測されている。


近代に入って明治14年(1881年)にも大火があり、仏殿、法堂、方丈、庫裏などがこの時焼失した。方丈 本堂(仏殿)、東司、現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建だが、国宝の三門を始め、東司(便所)、浴室、禅堂などは焼け残り、中世の建物が現存している。東福寺からは歴代多くの名僧が出ているが、中で特筆すべきは『元亨釈書』の著者である虎関師錬(こかんしれん)と、室町時代に画僧として活躍し、その後の仏画や水墨画に多大な影響を及ぼした吉山明兆(きつざんみんちょう)であろう>
※Wikipedia引用

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