2003/09/08

松阪城(お伊勢さんと松阪牛の旅)part2

 松阪といえば歴史のある城下町であり、また古い町並みでも知られているのが最大の魅力なのだが、実はかつて某お役所に出向していた時に、隣の席に座っていた変わり者の男の実家が松阪にあり、かつまたそのお役所のエライさんがやはり松阪の人で、名古屋城を臨む公務員住宅への入居を拒否してまで、わざわざ毎日松阪から名古屋まで通勤していた、変わり種であった。

 

どういうわけか、この松阪産の2人は奇しくも2人とも変わった苗字であるばかりか、パーソナリティの方も実にユニークで、片や長髪をちょん髷のように縛っていたキモオタ風な若者。もう一方は、うるさ型の変人として役人の間でも名物人間だった専門職のオッサンだったため

 

(「松阪」というところは、ヘンな苗字と変わりモンが多いんかいナ?)

 

と、妙に印象に残っていたものだった。

 

それはともかくとして、この辺りはJRと近鉄線が同じホームになっていて、実にわかりにくい。で、わからぬままに来た列車に飛び乗ると、何故かキレイな列車なのに車両には老夫婦が1組いるだけでで、ガラガラなのだった・・・

 

こりゃ好都合、と前の座席をグルリと回転させ4人分の席を独り占めして悠然と座っていると、しかめっ面の車掌がやって来た。

 

「恐れ入りますが、特急券を拝見させていただきます・・・」

 

「は? 特急なんぞに乗った認識はないが・・・」

 

「この列車は特急ですので、特急券が必要ですが・・・どちらまでですか?」

 

車掌のどことはなく横柄な態度が気に障り、次第にムカツク。

 

「松阪までだから、特急なんぞに乗る必要はないんだよ。時刻表には、ちゃんと普通になってたはずなんだけどなぁ。それで・・・特急券ってのは、幾ら?」

 

500円です」

 

500円? なんで、そんなにバカ高いのか? 乗車券が390円なのに、特急券が500円って高過ぎない?」

 

500円は正規料金です」

 

仕方なく1000円札でお釣りを受け取ったが、当然の事ながら松阪で下車した時は非常に気分が悪かった。

 

(気分を変えて、松阪城跡でも見に行くか)

 

駅の地図で凡その見当をつけて歩き出したが、早くも道に迷ってしまい一旦駅に戻る。普段のジーンズにデイパックというイデタチでの旅行とは違い、出張のおまけだからさすがに上着を脱いでネクタイも外していたものの、スラックスが歩きにくいのと上着とビジネスバッグで片手が塞がったままならぬ姿のせいで、余計に暑さが堪える。

 

取り敢えず駅の観光案内所に入ると、無愛想を絵に描いたようなオバハンが

 

(ちぇっ、ヘンなのが来やがった)

 

とでもいう顔で迎えた。

 

「松阪城跡へは、どのくらいの距離があるでしょう?」

 

「歩いて15分から20分くらいですね」

 

「どっち方面?」

 

するとこのオバハンは、無言である方向を指差した。が、駅前だから高層ビルばかりだし、そんなのでわかるわけもない。

 

「それじゃ、わからんけど」

 

と文句を言うと

 

「そこに地図がありますから、持っていってもろうたらええです」

 

と言うや仕事は終わったぞとばかりに脇を向いて、知らぬ顔を決め込むのだった。

 

(なんや、こいつは? それをわかりやすく案内するのが、アンタの仕事じゃないのか!

こんな不案内な土地の地図など、見たってわかるもんかい。じゃあ飾りにもならないブサイクなアンタは、何のためにそこに座っているわけ?)

 

と、腹の中で思いっきり毒づいてみる。仕方なく持ってきた地図を頼りに歩き出すが、これがまた出来損ないのようなわかりにくい地図で、散々道に迷った挙句に、ようやく松阪城跡に到着した。

 

《城の縄張りは、梯郭式平山城である。松阪市の中心地の北部に位置し、阪内川が城北を流れ天然の堀となっている。

 

江戸時代初期には松坂藩の藩庁となっていたが、廃藩後は御三家紀州藩の南伊勢国内179千石を統括するため、城代が置かれた。現在は石垣のみが残っており、城址公園となっている。


周囲には松阪市役所、市民病院、当地出身の本居宣長記念館などがある。松阪は、梶井基次郎の短編小説「城のある町にて」の舞台であるため、二の丸跡に文学碑が建てられている》

 

《松阪城の魅力に石垣がある。名古屋工業大学教授・内藤昌博士によると

 

「素晴らしい石垣。安土城同様の形式だが、それを上回る強固なもので美観という点でも優れている。蒲生氏郷の美意識の高さを感じられる」

 

とし、近世の先駆けとなる名城として挙げられる。

 

安土城の築城に加わった蒲生氏郷だが、松阪城にもこの時の石垣作りが採り入れられている。石垣のつみ方は「野面積み」を主体に、隅の部分は「切り込みはぎ」、「算木積み」という工法が使われている。


これらの工法は「穴太衆」と呼ばれる近江国の石工集団が、安土城で今までの日本には無かった新しい築城方法を発案した。

 

蒲生氏郷は、自分の出身地でもある穴太衆を中心に、地元の農民をかり出し石垣を組み上げていった。石材の多くは近くの河原から集められた石が使われたが、天守台などには古墳に埋葬された石棺の蓋まで使用された》

 

1988年(昭和63年)-2003年(平成15年)の16年間、総事業費11億円、総面積4580m2に及ぶ「平成の松坂城石垣修復」が実施された。部分的な石垣の修復はされていたが、全面的な修復は1700年以来といわれている。この修復で、二ノ丸からは蒲生氏郷の時とは違うノミ跡が発見されたり、三ノ丸の野面積みも紀州藩になってからのものなど、数多い発見があった。

 

松阪城は、1982年(昭和57年)に市民より「天守閣を再建してほしい」との要望もあったが反対する意見も多く、「天守閣問題」は取り止めとなった。

出典Wikipedia

まずは、その天守閣跡をぐるりと廻ってみる。高いところだから結構な風があり、少しスリルを味わう。ちょっと変な話だが、男が恐怖を感じるとタマが胎内(お腹の方)へ上がってきて、俗にいう萎んだ状態になるのだけど、これが「魂消る」(タマ=魂が胎内に消える)という言葉のルーツだとかなんとか、以前にモノの本で読んだ記憶があったが、遥か下界を眼下に見下ろす天守閣跡の崖っ淵をグルリと廻っている時のワタクシも、あの部分がゾクゾクするような妙な感じを味わいました。女性の場合は、こういう時ってどうなるんだろう。

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