2003/09/26

真如堂から永観堂へ(京都の紅葉part6)


真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、京都市左京区にある天台宗の寺院で通称・真如堂(しんにょどう)と呼ばれる。山号は鈴聲山(れいしょうざん)。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算である。
永観2年(984年)、比叡山の僧である戒算が夢告により、比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まりである(『真如堂縁起』)。正暦3年(992年)、一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたという。不断念仏の道場として、念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。しかし応仁の乱をはじめ、度重なる火災により堂塔は焼失した。その後、足利将軍家や豊臣秀吉により、京都市内の何カ所かを転々としたのち、元禄6年(1693年)、現在の場所に再建された。


本尊の阿弥陀如来は「頷きの阿弥陀」とも呼ばれており、慈覚大師円仁が一刀三礼にて彫刻したもので、完成直前に「比叡山の修行者の本尊となりたまえ」と言って白毫を入れようとすると、阿弥陀像は首を三度横に振って拒否されたので「では京の都に下って、一切衆生をお救い下さい。中でも女人等を救いたまえ」と言うと、阿弥陀像は三度頷かれたという伝説がある。

三井家の菩提寺で三井高利ら三井一族の墓石が並んでいる。お十夜(浄土宗の重要な仏教行事)は、ここが発祥である。近年は紅葉の名所として人気が高まっており、紅葉期は多くの人が訪れるが、普段は静かな寺院である。

国宝 法華経 自巻第二至巻第七 6巻(寿永二年運慶願経)
仏師・運慶の発願によって書写された法華経8巻のうちの一部(巻一は亡失、巻八は個人蔵)。 現在、他所に所蔵される巻八の巻末奥書に、本経書写に至る経緯が詳細に記されている。同奥書によると、運慶は安元年間(1175 - 1177年、運慶20歳代)に法華経書写を発願、数年後の寿永2年(1183年)に至って阿古丸なる女性の援助を得て、書写が行われることになった。快慶を始め、一門の仏師たちも本経に結縁している。経文の筆者は珎賀(ちんが)である。また巻軸には、書写の3年前の治承4年(1180年)に兵火で焼失した東大寺の焼け残りの木を用いたことが、軸木の墨書からわかる。日本を代表する仏師・運慶に関わる史料として重要である。

重要文化財
本堂
享保2年(1717年)の建立。

絹本著色普賢菩薩像

紙本著色真如堂縁起

木造阿弥陀如来立像
当寺の本尊。像高108cm。平安時代。通称「うなずきの阿弥陀」と呼ばれる。

 岡崎の名所を半周して最後は永観堂(禅林寺)へ行くと、東福寺と並ぶ紅葉の名所として知られるだけに、さすがにここでは観光客が列を成していた。


禅林寺は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院である。一般には、通称の「永観堂」の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。


空海(弘法大師)の高弟である僧都・真紹が、都における実践道場の建立を志し、五智如来を本尊とする寺院を建立したのが起源である。真紹は仁寿3年(853年)、歌人・文人であった故・藤原関雄の邸宅跡を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都では、みだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の貞観5年(863年)、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。

当初、真言宗寺院として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の律師・永観(ようかん、1033 - 1111年)の頃から、浄土教色を強めていく。永観は文章博士(もんじょうはかせ)源国経の子として生まれ、11歳で禅林寺の深観に弟子入りする。当初、南都六宗のうちの三論宗、法相宗を学ぶが、やがて熱烈な阿弥陀信者となり、日課一万遍の念仏を欠かさぬようになる。師深観の跡を受けて禅林寺に入るのは、延久4年(1072年)のことである。永観は人々に念仏を勧め、また禅林寺内に薬王院を設けて、病人救済などの慈善事業も盛んに行なった。永観は、今日の社会福祉活動の先駆者といえるであろう。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。なお「永観堂」は普通「えいかんどう」と読むが「永観」という僧の名は「ようかん」と読むのが正しいとされている。

禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。この像については、次のような伝承がある。永保2年(1082年)、当時50歳の永観が日課の念仏を唱えつつ阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って一言「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像は、それ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという。
※Wikipedia引用

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