生まれも育ちも愛知のワタクシは学生時代に京都に下宿した折り、かねてからその名に強い憧れのあった「祇園」の街を、何度もあてどもなくブラブラとさ迷い歩いた。
そこは、噂に訊いていた通りの華やかで煌びやかな世界であり、一介の貧乏学生たるワタクシなどは、お呼びでなかったわけだったが (* ̄m ̄)ブッ
「祇園」と訊くとまず真っ先に思い出すのが、学生時代に暗記させられた『平家物語』の
「祇園精舎の鐘の音・・・」
というあの有名な出だしだ。
この「祇園精舎」とは、そもそも何ぞや?
と疑問に思ったのが、事の始まりである。
「祇園」は単純に地名と解釈するとして、その後に続く「精舎」は字面からして「学び舎」(※実際の「精舎」とは侶が仏道を修行する所。てら。寺院を指す梵語)と見当がつくが、その後の
「鐘の音・・・」
に加え、さらに
「諸行無常の響きあり・・・」
に至っては、どう考えても仏教の世界のお話で、花街の京都・祇園とは到底関係なさそうだワイ、などと漠然と考えた。
その後、時を隔ててン年、インターネットの時代が訪れるとともに、再び
(そも『祇園精舎』とは、何ぞや?)
という疑問が頭を擡げ、まずそこから調べてみようという経緯となった。
《梵語名は「ジェータ太子の森(林)」 (祇陀林, Jetavana) と「身寄りのない者に施しをする」 Anāthapiṇḍada) を連記した名であり、以下の由来による。
コーサラ国のシュラーヴァスティーに、スダッタ(Sudatta 須達多)という富豪がいた。
身寄りのない者を憐れんで食事を給していたため、人々から「給孤独者」あるいは「給孤独長者」 (アナータピンディカ Anāthapiṇḍada) と呼ばれていた。
ある日、スダッタは、釈迦の説法を聞いてこれに帰依し、彼に説法のための寺院(精舎)を寄付しようと思い立った。
以前の仏教教団は、一年中歩きまわって布教・托鉢などの修行(遊行)を行っていたが、雨季での遊行は虫や植物などを多く踏みつけて殺生してしまうため、雨季だけは建物内で修行するようになっていた(安居)が、教団にふさわしい施設を欠いていたからである。
そして見つかった土地が、ジェータ(jetṛ、祇陀)太子の所有する園林(vana) であった。
その土地の譲渡を望むスダッタに対して、ジェータ太子が
「必要な土地の表面を金貨で敷き詰めたら譲ってやろう」
と戯れで言った。
しかし、スダッタが本当に金貨を敷き詰め始めたため、ジェータ太子は驚いて、そのまま土地を譲渡し、更に自らも樹木を寄付して寺院建設を援助した。
そのため、この僧園はジェータ太子と給孤独者スダッタ両者の名を冠して祇樹給孤独園と呼ばれ、そこに建てられた精舎を「ジェータ太子の森(漢訳で「祇陀樹」、略して「祇樹」)、身寄りのない者に施しをする長者(漢訳で「給孤独長者」、略して「給孤独」)の「園林(園)にある精舎」と呼び、漢訳では「祇樹給孤独園精舎」、略して「祇園精舎」と称するようになった。
※Wikipedia引用
こうして「祇園精舎」のルーツはわかったが、依然としてこの「祇園精舎」と、京都の「祇園」との関連性はハッキリしない。
ところで、お隣の滋賀県(長浜市)にも同じ「祇園」の地名があり
《長浜市の両端に位置し、東は県道(北陸脇道)が通り、西は琵琶湖に接する農村地帯であったが、市の発展に伴い工場や住宅が建設され、次第に市街化されつつある。
古く、京都の祇園社の領地となっていた事が、地名の由来である。
氏神として八地神社がおかれているのは、その証拠である》
このように「祇園」の名は京都東山の八坂神社の別名と言われ、同じ地名は各地に見られるようであり、いずれも祇園の神を奉ってある事によるそうです。
ちなみに、京都の祇園と呼ばれる一帯の中には「石塀小路」、「切り通し」、「花見小路」、「団栗(どんぐり)通り」といった、ユニークな通り名が数多く見られるのも特徴です。
0 件のコメント:
コメントを投稿