出張で三重県・津に行った。
名古屋から津までは、近鉄特急で約50分。現地へ到着したのが10時前で、案件自体は意外に早く午前中に片付いたため、余った午後からの半日はたっぷり観光にあてる事にする。
津には数年前にも、仕事がらみで行った事があり今回は二度目だったが、官庁街なのであまり見所がない印象(詳しくないので、実際のところはわからないが)だったため、伊勢へと行く事に。
『伊勢神宮』へは、子供の頃に両親に何度か連れて行って貰ったらしいが残念ながらまったく記憶になく、これが事実上初めての参宮である。日本人として、やはり一度は早く行ってみたかったものの、なかなかチャンスに恵まれなかったのだが、そういう意味では今回はお誂え向きのチャンスというわけだった。
こうして、初の参宮となったお伊勢さんではあるが、なにしろ交通の便が悪い。電車はJRと近鉄があるものの、都市圏のような新快速や快速列車がなく、あるのは特急と普通のみ。特急料金を惜しんだがために、酷いノロノロ運転のワンマンカーに乗るハメとなり、イライラしっぱなしだった。
車窓からは、見渡す限り田んぼや畑ばかりの田園風景が続いていたが、それでもやけに学生の姿が目に付いた。学生といっても、日頃見慣れている連中とは人種が違うような素朴な感じの子らで、彼ら彼女らにとっては日常の事なのではあろうが
(よくこんな停車ばかりしている=駅に着く度に、7分とか8分の調整停車=列車に揺られていて、退屈しないものだ)
とか
(こういう、長閑なところで育ってきた学生が都会へ行ったら、あの万事につけてセカセカとした早いペースには、さぞかし面喰らうだろうなー)
などと勝手に想像を逞しゅうしていると、たっぷり1時間以上は費やして、ようやく伊勢に到着した。
《伊勢神宮の起源は、古事記、日本書紀によれば垂仁天皇(紀元前69年-70年?)の皇女倭姫命が、天照大御神を鎮座する地を求め旅をしたとされる。倭姫命は倭国から丹波国、倭国、紀乃国、吉備国、倭国、大和国、伊賀国、淡海国、美濃国、尾張国、伊勢国の順に移動し、伊勢国内を移動した後、現在の五十鈴川の畔に五十鈴宮という名で鎮座したとされる。移動中に一時的に鎮座された場所は、元伊勢と呼ばれている。しかし、これらはいずれも記紀神話に従った伝説にすぎず、考古学的資料に基づくものではない。なお、外宮は雄略22年7月に丹波(丹後)の比沼山頂より、伊勢山田へ遷座したことが起源である》
記紀には外宮遷座のことは一切記されていないが、日本書紀においては同じ雄略22年7月の記事として、浦の嶋子(浦島太郎)の竜宮城出発が記されている。片や国家的祭祀上、重要な事件であるのに対して、片や殆ど御伽噺のような事件の発端が何ゆえに日本書紀に記されたのか、編集者の方針に重大な疑問が残る。
伊勢神宮は「お伊勢さん」とか「大神宮さん」とか呼ばれ親しまれて、日本人の心のふるさとになっています。伊勢神宮は、正式には「神宮」と呼ばれ、内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)のほか、14の別宮、摂社・末社など125社で成り立っています。これらの宮社は、伊勢市内とその近郊(松阪市・鳥羽市・志摩市・度会郡など)に御鎮座しています。
内宮が現在の伊勢の地にお祀りされて、2000年が過ぎました。
『日本書紀』には
「天照大神、倭姫命におしえて曰く
『この神風の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)の帰(よ)する国なり、かた国のうまし国なり、この国に居(お)らむとおもう』
とのたもう」
とあり、また『万葉集』には
「神風の伊勢の国は山も河も美しい御食(みけ)つ国」
とあります。
この伊勢の地は神話の時より気候風土に恵まれ、大自然に育まれたまさに『美し国(うましくに)伊勢』なのです>
奈良・薬師寺の東搭(国宝)を「凍れる音楽」と評したアメリカの高名な哲学者・フェノロサが、明治時代にこの伊勢神宮を訪れた際に神の存在を強く体感し、フランスのノートルダム寺院かどこかと並び称して「世界でも、稀に見る神域である」とかなんとか絶賛したという話(うろ憶えだが、確かにそんなような意味だったと記憶)をかつてモノの本で読んでから、伊勢神宮には特別なる幻想を抱いていたものだが、実際に来てみたお伊勢さんは神も仏も拝んだ事のないワタクシには、そういったありがたいインスピレーションなどが訪れるべくもなく
「(何度も行っている名古屋の)熱田神宮と、どこが違うのか?」
という印象しか残らなかった。
そうして伊勢神宮を後にすると、今度は一路松阪へと向った。
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