ビデオを廻しながらグルリと三周ばかり廻って堪能した後は、琵琶湖疎水の流れる水路閣の方へ移動した。
<疏水事業は、京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者として明治18年に起工され、同23年に竣工した。水路閣は、この疏水事業の一環として施工された水路橋で、延長93.17メートル、幅4.06メートル、水路幅2.42メートル、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち、京都を代表する景観の一つとなっている。
また、ここから西500メートルにあるインクラインは、高低差のある蹴上の舟だまりと南禅寺の舟だまりを結ぶ傾斜地に上下二本のレールを敷き艇架台により舟を運ぶ施設で、当時の舟運による交通事情がよくうかがえる。いずれも西欧技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計および施工されたもので、土木技術史上極めて貴重なものであり、昭和58年7月1日に「疏水運河のうち水路閣及びインクライン」として京都市指定史跡に指定された。
また平成8年6月には、この水路閣とインクラインに加え、第1疏水の第1、第2、第3隧道の各出入口、第1竪坑、第2竪坑、明治36年に架設された日本初の鉄筋コンクリート橋(日ノ岡第11号橋)、同37年架設の山ノ谷橋などが日本を代表する近代化遺産として国の史跡に指定された>
本来なら、場所にそぐわないようなあの赤レンガのアーチ状になった水路閣だが、不思議と境内の古めかしい伽藍とは良くマッチして見えた。水路閣を潜った後で入った「南禅院庭園」は正直期待外れだったが、水路閣上を歩くとさすがにここでは行き交う観光客の姿は殆んどない。
<毎回感じることだが、明治時代のネーミングセンスというのは、どうしてこうも粋なのだろうか。もし現代にこうした建造物ができたとして、果たして漢字語式の名前など誰が考えるだろうか。また考えたとしても、絶対にこういう格好良いものは考えつかない。
水路閣は琵琶湖疎水という、琵琶湖と京都の間に立ちはだかる山々をぶちぬいて流れる、長大な運河にしつらえられた水道橋である。記録によると、第三代京都府知事の北垣国道氏が、首都機能移転後の京都を復興させようと、維新以来の京都府政の宿願だった琵琶湖疎水計画を実行に移したとある。
明治14年当時、京都の水脈はもっぱら地下水か、北方の山々に流れを発する川しかなかった。しかし、いずれも急流でもなければ豊富な水量でもなかった。しかし山をいくつか越えれば、日本最大の湖・琵琶湖がある。そこで考えられた手段は、なんと幾つもの山をぶちぬいて長大な水路を造ろうというものだった。
それは、滋賀県の大津市は三井寺の近くから長等山にトンネルをぶち抜いて水路を確保し、山科盆地の山々を同じように幾つものトンネルを穿ち、さらに日ノ岡山のトンネルと、まるで新幹線の開通工事のように掘って掘って掘りまくるものだった。その中でも、長等山の第一トンネル(2,436m)は当時、類をみない長大トンネルである。
この九年前。明治5年に開通した新橋~横浜間の日本最初の鉄道にしても、当時の大工事は外国人技術者の設計・監督に頼っての工事が殆どだったが、この琵琶湖疎水工事は設計も工事も全て日本人の手による初の大事業でもあった。しかも驚いたことに、北垣国道知事は当時全く無名の若干21歳の青年技師・田邊朔朗に、この国家プロジェクト並みの大事業を一任した。オマケに、彼は大学で疎水の理論と設計を論文にまとめたに過ぎず、実体験もなければ土木工事の経験もなかったと言うから、無謀とも言える物凄い大抜擢である。現代なら、保険会社もしっぽを巻いて逃げてゆくだろう。
青年技師・田邊朔朗が北垣知事にうんと言わせたものは、若さに似合わない高い完成度の研究論文と、なんといってもその熱意だったという。そんな彼の熱意が今も感じられるのが、水路閣を観れば判るローマの水道橋を模した、美術品のようなデザインである。彼の建築ポリシーには『建築物はすべからく、美しくなければならない』というのがあったそうだ。
あいにく水路閣以外の疎水を追っかけて観ることは、なかなか難しい。殆どは険しい山の中を貫いているし、一般人が見物できる場所も限られた区域だけだからだ。だが写真や特別番組で拝めたその水門やトンネルの出入り口は、水路閣同様に凝りに凝った様式デザインのもの、あっさりしてはいるが力強いなかに美しさを秘めたものと様々だが、いずれもひとつとして手抜きのないものばかりである。
さいわい『kasen.net日本の川』というサイト(http://www.ne.jp/asahi/river/jp/@6/yodo/sosui/index.htm)で上記の水門など、滅多にお目にかかれない写真を多数見ることができる。日本の川~近畿の一級水系~淀川水系と辿って、ようやく琵琶湖疎水のコンテンツに辿り着くというものすごいものである。
「水路閣」という名前にも、浪漫というか熱い情熱で眼をキラキラさせながら、世紀の大土木事業を成し遂げた青年の誇らしげな笑顔が浮かぶ。事実、1890年にこの琵琶湖疎水が完成した結果、日本初の水力発電所ができ東京よりも先に街灯にアーク灯が点り、さらに1895年には日本初の電車である京都市電が開通することとなる。その時、京都は1100年の古都であると同時に、最先端のハイテク都市でもあったわけだ。
そうはいうものの建設当時、純和風で古式ゆかしい南禅寺の境内に、いきなりハイテクで外国チックまんまな建造物が、で~んと現れたのである。保守的な人は、さぞやぶったまげたにちがいない。事実反対運動らしきものもあったとかという話も聴いたが、今と違って政府の力が絶対的な明治の世の中なので、ある程度はウムを言わせず断行したとも考えられる。とはいえ、建造以来百十数年。もしかしたら天才技師・田邊朔朗は百年後のレンガの醸し出す雰囲気まで計算していたのではないかと思われるほど、今ではすっかりモダン建築として馴染んでしまっている。今では誰に尋ねても、南禅寺の境内でなくてはならない存在なのは間違いない>
出典 http://tomzone-s.a.la9.jp/stwr_folda/OBtabi_folda/Btabi_34.html
出典 http://tomzone-s.a.la9.jp/stwr_folda/OBtabi_folda/Btabi_34.html
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