2003/09/22

東福寺もみじへの道(京都の紅葉part2)



 どこへ行っても紅葉などは珍しくもなんともない京都の町や寺社でも、この『東福寺』は特に紅葉の有名な事ではよく知られ、勤労感謝の日の祝日が土日と重なる三連休となる年などは、この三日間だけで実に10万人もの観光客が訪れるとも言われるほどであった。勿論、当時はそんな事は知らないワタクシだったが、どういう僥倖からか偶々この時はすんなりと中に入る事が出来

(これが、あの写真で見た『通天橋』ってやつか・・・)

と、感慨深くも古びた木の橋の上から犇く観光客の頭越しにビデオカメラを構えると、向こう側の正面に見える一段と立派な感じの橋が本物の『通天橋』であり、今立っているのは『臥雲橋』という別の橋であった・・・

<通天橋三門、本堂、方丈、庫裏などからなる主要伽藍を中心に25の塔頭寺院がある。主要伽藍の北には洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷があり、西から東へ臥雲橋、通天橋、偃月橋という3本の橋(東福寺三名橋)が架かる。通天橋は、本堂から通じる廊下がそのまま屋根付きの橋となったもので、この付近は特に紅葉の名所として知られる。


通天橋
橋を渡ると、開山円爾を祀る常楽庵がある。応仁の乱の戦火を免れた、貴重な文化財が数多く存在する。

三門 

応永32年(1425年)の再建で、現存する禅寺の三門としては日本最古のものである。上層には、釈迦如来と十六羅漢を安置する。五間三戸二重門である。「五間三戸」とは正面の柱間が5つ、うち中央3間が通路になっているという意味で「二重門」は2階建ての門だが「楼門」と違い、1階と2階の境目にも軒の出を作るものを言う。

本堂(仏殿兼法堂)


明治14年(1881年)に仏殿と法堂が焼けた後、大正6年(1917年)から再建工事にかかり、昭和9年(1934年)に完成した。入母屋造、裳階(もこし)付き。高さ25.5メートル、間口41.4メートルの大規模な堂で、昭和期の木造建築としては最大のものと言われている。天井の竜の絵は、堂本印象筆である。

本尊釈迦三尊像(本尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)は、明治14年の火災後に万寿寺から移されたもので、鎌倉時代の作である。

方丈
明治23年(1890年)の再建。正面前庭にある唐門は明治42年(1909年)に造営され、昭憲皇太后より下賜されたものである。庭園は近代の造園家、重森三玲によって昭和13年(1938年)に作庭され、方丈を囲んで四方に配される。釈迦成道を表現し、八相の庭と命名されている。鎌倉期庭園の質実剛健な風格を基本とし、これに近代芸術の抽象的構成をとり入れた枯山水庭園である。

南庭
荒海の砂紋の中に蓬莱、方丈、瀛洲、壺梁の四仙島を表現した配石で、右方には五山が築山として表現されている。

北庭
南の恩賜門内にあった敷石を利用し、石と苔を幾何学的な市松模様に配している。



西庭
さつきの刈込みと砂地が大きく市松模様に入り、くず石を方形に組んで井田を意図している。

東庭
東司の柱石の余材を利用して北斗七星を構成し、雲文様の地割に配している


 通天橋は臥雲橋と偃月橋という橋と繋がっていて「東福寺三名橋」と言われる。


※Wikipedia引用

下流の方へグルリと廻り本物の通天橋の上に立って見ると、さすがに視界の限り素晴らしい眺望が望めた。初の本格的な紅葉狩りとなったこの年は、高温が続いたり直前に強い雨と風に見舞われたせいで葉の色付きが悪いのは残念だったが、歩廊を歩いて庭園に出る。「洗玉澗」という渓谷を模した一帯には、ここでしか観る事の出来ない「通天もみじ」が秋の陽を浴びて美しく光っていた。通天紅葉は三葉紅葉の一種で、三つに分かれた葉が秋になると黄金色に染まる。ビデオカメラを撮影していると、何故か見知らぬオバサンが落ち葉を手にして  

「ホラ、これが通天紅葉やねん。普通のとはちゃいますやろ。こんなん、ここでしか観られまへんで」

と耳打ちしていった。こうして時間を掛けて充分に堪能した後は「泉涌(せんにゅう)寺」へ廻る予定だったが、地図を見ると近くにあるはずなのに坂道を登れど登れどそれらしい格式の高い寺院は見えてくることがないままに、方向転換して清水寺へ移動することにする。前回の清水さんは桜が満開であったが、この日は舞台から暮れなずむ秋の夕日に映える紅葉を眺めて、初日の日程が終わった。

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