『日本書紀』によると雄略天皇15年、秦酒公が百八十種の勝(部)を率いて絹嫌を献上し、朝廷に一杯に積み上げた。
それで「禺豆麻佐」という姓を賜わったといい、また「禺豆母利麻佐といへるは、皆み盈て積めるかたち貌なり」と書いてある。
『新撰姓氏録』にも、ほぼ同じような逸話が記されている。
秦酒公から、献じられた絹などの布は「柔らかにして、温かきこと肌の如し」と天皇を喜ばせ、うず高く積まれた献上品にちなんで、酒公に「萬都万佐」の号を与えたという。
これが、五世紀中ごろの太秦の地名起源説として広く知られているわけだが、最近では雄略紀の秦氏=機織技術氏族説は他に根拠がないという事で、これを
真っ向から否定して「ウヅマサ」は朝鮮語系の「ウヅ」(貴)と「マサ」(勝)の意で、すなわち族長と解するべきだという説が有力になっているらしい。
太秦の南は梅津で、梅津は桂川沿いの埋め立て地である所から、ウメヅ(梅津)がウメツ(埋め津)である事を参考にすると、隣接地のウヅマサ(太秦)も、ウヅム(埋)に関した語であるとする見方も出来よう。
これだと「ウヅマ(埋)サ(砂)」という語源分析になる。
しかしウヅマサは元来、ウツマサと清音だったから、ウヅマル(埋)説をもってくるのは国語学的に合わない。
太秦の地は梅津よりは北の双カ岡山麓で、梅津辺の荒洲とは異なり洪積層土質のやや高い地帯である。
古代地勢から見ると宇太村、すなわち『顕宗紀』に言われたウタ(歌)の地(または、その一部)に相当するのではないか、と思われる。
もし、そのような見当が間違っていないものとすると、ウツマサ(太秦)のウツは、宇太村のウタ(歌)と同じものであり、ウタ(歌)が良い田、すなわちウタ(宜田)と解せるのと同じように、ウツマサ(太秦)のウツはウツ(宜津)、つまり宜しい所の意となってくる。
太秦は、雄略天皇から賜わった秦酒公の姓だが、その人が住んだ所が桂川よりは高地の宜しい所だった、という事であるらしい。
土地への讃称をもって、秦造の名にしたと見ると「ウツ」の下に付いている「マサ」は、褒め称える敬語だ。
居住する意の敬語に、イマス(坐)という古代語がある。
イマス(坐)は「君が坐さむ」など『万葉集』の歌などによく使われ、漢字「坐」をマサと読んでいる。
そのマサ(坐)が、ウツマサ(太秦)のマサだと思う。
つまり、ウツマサ(太秦)はウツマサ(宜津坐)で、秦河勝らが宜しい所としてここにおわしました、という敬称に由来する。
東漢氏と並べられる古代帰化人中の大族の秦氏が神として崇敬されたのは、五世紀ごろから朝廷の伴造となって秦部を主宰し、六世紀後は朝廷の財産管理者となっていて、その中心がこのかずの葛野秦氏だった事による。
『日本書紀』皇極天皇三年七月の条によると、常世の虫祭りで欺いた大生部多という人を打ち懲らしめた秦河勝は《太秦は神とも神と聞え来る、常世の神を打ちきた懲ますも》と、人民から讃仰されている。
常世の神をやっつけた神以上の神だ、という河勝公への絶対的崇敬がこの歌に見られるところで、これがただの秦ではない「太」という文字を冠せるようになった原因の一つであろう。
「太」の意味は「大」と同じだが「大」を二つ重ねた「大大」が縮められて「太」の字が出来たといわれるほど、大変大きいという意が「太」である。
初代の天子を太祖というが、秦河勝は秦氏の太祖ほどに仰がれたので、その用字「太秦」が尊敬語「ウッマサ」に当てられたのだ。
双カ岡周辺の宇多野の「ウタ」は、宜い田。
嵐山の古語、歌荒櫟田の「ウタ」も「良い田」という意味で、この「ウ」は太秦の「ウ」と同じ語である。
このように色々な面から解明を試まれているようだが、いずれにしても太古の時代より葛野の桂川流域一帯に根を下ろし、太秦〜淀川〜瀬戸内海〜香港との交易、大堰を作って治水によって農耕、養蚕・機織と産業を興し繁栄していたのが秦氏で「太秦」が秦氏の広大な勢力圏の中心部分だった事は間違いない。
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