寺社の日本庭園で、季節の花を愛でるのが趣味のワタクシなどは、乙訓といえばボタンで有名な「乙訓寺」をすぐに連想してしまいますが、向日市にある西ノ岡丘陵が竹の緑につつまれて横たわるところから、ここがかの有名な《かぐや姫伝説発祥の地》と言われる事があります。
「乙訓」の由来については、以下の説があります。
(1)『古事記』には、垂仁天皇が丹波国の美知能宇斯(みちのうし)王の四人の姫を宮廷に召しましたが、歌凝(うたごり)比賣と圓野(まとの)比賣の二人を醜いとして、国元に返します。
圓野比賣はこれを恥じて、帰途山代国の相楽で木に首を吊りましたが死にきれず、弟国に来た時淵に身を投げて死んだので
「故、其地を號けて墜国(おちくに)と謂ひしを、今は弟国(おとくに)と云ふなり」
とあります。
『日本書紀』垂仁紀15年8月の条にも、同様の記事(「竹野媛が葛野で輿から落ちて」)があります。
(2)乙訓郡は最初葛野郡に属し、大宝令施行時に分離して葛野郡の兄国に対して「弟国」となり、和銅6(713)年の地名二字好字令で「乙訓」に改めた、とされます。
(3)『和名抄』高山寺本の乙訓郡の訓注に「オタギ」とあるところから、愛宕郡とともに「おたぎ」と呼ばれていたとする説
(4)「オタギ(高所)」に対する「オト(劣る、低い)・クニ(地域)」と解する説
などがあります。
この「おとくに」は、マオリ語の
「オ・タウ・ク・ヌイ」、O-TAU-KU-NUI(o=the place of;tau=come to rest,settle down,be
suitable,beatiful;ku=silent;nui=large,numerous)、「非常に美しくて静かな場所」の転訛と解します。
ちなみに(1)を平たく表現し直すと、こうです。
垂仁天皇が、とある姉妹のお姫様4人を妃に迎える事になりました。
上から順に 比婆須比売(ひばすひめ) 弟比売(おとひめ) 歌凝比売(うたごりひめ) 円野比売(まとのひめ)
この四姉妹のうち長女と次女は美人だったのに、三女と四女は容貌に恵まれなかった。
そのため天皇は、このお姫さま2人を実家である丹波に返しました。
末娘の円野比売が
「同じ姉妹でありながら、姿が醜いからと言って実家に送り返されるなんて、あまりにも恥ずかしい」
と嘆いて山城の国に差し掛かったとき 木の枝にぶら下がって死のうとしました。
そこを「懸がり木(さがりき)」と呼び「相楽(さがらか)」=(現在の相楽郡)と呼ぶのだそうです。
ちなみに、円野姫はそこでは死にきれずに「その後、ついに深き淵に落ちて死にき」とあります(『古事記』)
ゆえに、その地を「墜国(おちくに)」と呼び、(2)の経緯により「弟国」⇒「乙訓」となりました。
さて『竹取物語』といえば、日本最古の古典文学として知らぬ者のないほど有名な《かぐや姫》のお話ですが、この地に伝わる《かぐや姫伝説》では、上記の『記紀』の記述を踏まえ
『やがて姫の怨念が乙訓の竹に宿り、生き返ったのが「かぐや姫」であった』
という事になるようです。
その根拠として『古事記』垂仁記に「大筒木垂根王之女、迦具夜比売命」とあり「大筒木垂根王」と、その娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと) が記されているところから《かぐや姫》は実在の人物であったことがわかり、さらに前後の脈絡から京田辺が『竹取物語』発祥の地であるという結論に達した、という研究成果が発表されています。
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