発掘調査の結果、平城薬師寺の廻廊は当初単廊(柱が2列)として計画されたものが、途中で複廊(柱が3列、通路が2列)に設計変更されたことが判明している。このことから、当初は本薬師寺の建物を一部移築しようとしていたものを、途中で計画変更したのではないかとする説もある。金堂本尊薬師三尊像については『日本書紀』に見える「持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)が行われた」との記述を重視し、この年までには造立されて後に平城薬師寺に移されたとする説がある一方、主に様式や鋳造技法の面から平城移転後の新造とする説もあり、決着はついていない。
20世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代末期仮再建の金堂、講堂が侘しく建ち、創建当時の華麗な伽藍を偲ばせるものは焼け残った東塔だけであった。1960年代以降、名物管長として知られた高田好胤が中心となって写経勧進による白鳳伽藍復興事業が進められ、1976年に金堂が再建されたのを始め、西塔、中門、回廊の一部、大講堂などが次々と再建された。なお、旧金堂は現在興福寺の仮中金堂として移築され、外観を変えながらも現存している。
伽藍配置
玄奘塔当寺の伽藍配置は「薬師寺式伽藍配置」と称されるもので、中央に金堂を配し金堂の手前東西に塔を、金堂の背後に講堂を、またそれらを取り囲むように回廊を配している。
南門(重文)
境内南正面にある小規模な四脚門。室町時代・永正9年(1512年)の建築で、もとは薬師寺西院の門であった。
中門
1984年の再建。両側に回廊が延びる。
金堂
1976年の再建。奈良時代仏教彫刻の最高傑作の1つとされる、本尊薬師三尊像を安置する。1976年の再建。
大講堂
2003年の再建。正面41m、奥行20m、高さ17mあり、伽藍最大の建造物である。 本尊の銅造三尊像(重文)は中尊の像高約267cmの大作だが、制作時期、本来どこにあった像であるかなどについて謎の多い像である。かつては金堂本尊と同様「薬師三尊」とされていたが、大講堂の再建後、寺では「弥勒三尊」と称している。
東塔(国宝)
現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)に遡る唯一のもの。総高34.1メートル(相輪含む)。日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇る。屋根の出が6か所にあり一見六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階(もこし)であり、構造的には三重の塔である。仏塔建築としては他に類例のない意匠を示す。
塔の先端部の相輪にある青銅製の水煙には飛天像が透かし彫りされており、奈良時代の高い工芸技術を現代に伝えている。相輪の中心部の柱の最下部には「東塔檫銘」と称される銘文が刻まれており、薬師寺の創建と本尊造立の趣旨が漢文で記されている。塔の建築年代については、飛鳥の本薬師寺から移築されたとする説と、平城京で新たに建てられたとする説とがあったが『扶桑略記』の記述の通り、天平2年(730年)に平城京にて新築されたとする説が有力である。
当初、東塔・西塔の初層内部には、釈迦八相(釈迦の生涯の8つの主要な出来事)を表した塑像群が安置されていたが、現在は塑像の断片や木心が別途保管されるのみである。しばしば「凍れる音楽」と称される。この古びた佇まいの東塔と、修復されてまだ間のなかった朱塗りの派手な西搭が二つ並ぶ光景は、やはり肉眼にも眩しいくらいに美しい眺めだ。
国宝は勿論、古びた東塔の方である。

薬師寺の塔の美しさは、屋根と屋根の間に裳階(もこし=通常、本来の屋根の下にもう一重屋根をかける形で付ける。元来は風雨から構造物を保護するために付けられたものか。構造は本屋より簡素であり、建物を実際より多層に見せることで外観の優美さを際立たせる効果があるため、特に寺院建築で好んで利用された)という小さい屋根のような飾りが付いているために、一見したところ六重塔に見える、あの独特の創りにある。アメリカの哲学者で日本の文化に造詣の深かったフェノロサが、このリズミカルな建築美を「凍れる音楽」と評したセンスには、本当に脱帽する。
さらに、この塔が凝っているのはそればかりではない。塔の屋根から上に突き出している相輪という部分に「楽奏天人」という、雲の上に乗った天女が横笛を吹いている図案の彫刻が透かし彫りにされるという、念の入りようである。勿論、そうしたところは肉眼では見えない高さだ。この時はビデオを撮影していながらまったく気が付かなかったくらいで、ボンヤリ見ていては到底目にも留らないようなところで、これだけ凝った仕事をする職人気質こそは日本文化の奥深さ、また奥床しさを感じさせる素晴らしさといえる。
西塔
東塔と対称的な位置に建つ。旧塔は享禄元年(1528年)に戦災で焼失し、現在ある塔は1981年に伝統様式・技法で再建されたものである。デザインは東塔と似ているが、東塔が裳階部分を白壁とするのに対し、西塔は同じ箇所に連子窓を設けるなどの違いもある。東塔も元々は連子窓であったが、修復で白壁にされた。一見すると東塔に比べ若干高く見えるが、これは1300年の年月の内に東塔に材木の撓みと基礎の沈下が起きたためであり、再建された西塔はそのような年月の経過を経験していないため、若干高く見えるとのことである。西塔の再建に当たった文化財保存技術者によれば、500年後には西塔も東塔と同じ高さに落ち着く計算とのことである。
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