禅林寺12世の僧都・静遍(じょうへん、1166年 - 1224年)は当初真言宗の僧であったが、後に法然に帰依し念仏門に入った。法然の高弟の証空(西山)も、静遍の後を嗣いで当寺に住持したと伝えられている。證空の門弟の浄音の時代に、禅林寺は真言宗から浄土宗西山派(小坂流)の寺院となり、揺るぎのない念仏道場とされた。境内には地形の高低差を生かして多くの建物が建ち、それらの間は渡り廊下で繋がれている。
総門
江戸時代末期の建築。「高麗門」と呼ばれる形式である。
中門
中門
延享元年(1744年)の建築。「薬医門」と呼ばれる形式である。「高麗門」、「薬医門」ともに、寺院建築よりは城郭、大名屋敷などに多く見られる形式である。
御影堂
1912年(大正元年)に完成した総ケヤキ造の仏堂。宗祖法然を祀る堂で、本尊を安置する阿弥陀堂よりも規模が大きい。
阿弥陀堂
阿弥陀堂
御影堂より一段高い敷地に位置する。
慶長年間(17世紀初)頃の建築。本尊の「顧り(みかえり)阿弥陀」像(重文)を安置する。
多宝塔
多宝塔
境内の最も高い位置にあり、景観上重要な位置を占めている。1928年(昭和3年)、篤志家の寄付で建設された。
方丈
「方丈」は禅宗寺院特有の建物で、他宗ではあまり見かけないものだが禅林寺の方丈は、平面、立面ともに禅宗寺院の方丈と同形式の建物である。寺伝では永正年間(1504-1511)、後柏原天皇によって建てられたというが、実際の建築は江戸時代に降るものとみられる。
木造阿弥陀如来立像(みかえり阿弥陀)
木造阿弥陀如来立像(みかえり阿弥陀)
「みかえり阿弥陀」の通称で知られる、頭部を左(向かって右)に向けた特異な姿の像。像高77センチ。かつては鎌倉時代の作とされたこともあったが、作風、構造等の特色から平安時代末期、12世紀頃の作と見るのが妥当である。この種の「みかえり阿弥陀」の作例はチャイナにもあり(四川省安岳円覚洞16号窟、宋時代)、日本では山形県善光寺像など、鎌倉時代以降の作例が若干知られている。1999年、重要文化財に指定。
※Wikipedia引用
※Wikipedia引用
この年は、天候不順の影響で全体的に葉の色付きが悪かったが、条件さえ良ければ山の上にある多宝塔に登る臥龍廊(回廊)から一望できる紅葉は、さぞかし素晴らしいものであろうと思わせる庭園であった。お目当てのライトアップ紅葉を堪能して、この日は岡崎にある公共施設に泊まった。
3日目は宿の近くにあったバス停から、ちょうど嵐山方面行きのバスが出ていたのでそれに乗った。レンタサイクルで自転車を借りて嵐山を気侭にサイクリングしたのまでは覚えているが、さすがにこの辺りからの記憶は曖昧だ(編集したビデオがあるが、数が多くなり過ぎて探すのが面倒w)
大覚寺、広沢池辺りをグルリと廻り、観光コースからは外れた離れたところに孟宗竹に囲まれ、ひっそりと佇む直指庵という尼寺に辿り着いた。
<竹林の中にある小さな庵の寺は、臨済禅を学んだ独照禅師が正保3 (1646)年に草庵を結んだのが始まりである。独照禅師が明の国の高僧隠元禅師に黄檗禅を学び、隠元をここに請じてから大寺院となった。しかし、その後しだいに衰退し独照の墓堂だけになったが、幕末の頃、近衛家の老女津崎村岡局が浄土宗の寺として再興した。
現在の建物は焼失後の明治32年、北嵯峨の有志によって建てられたものです。境内には、開山堂や水子地蔵尊、思い出草観音像、修練道場があり、開山堂への道の途中には、与謝野晶子の『夕ぐれを花にかくるる子狐のにこ毛にひびく北嵯峨の鐘』の歌碑が建っています。また庵横の小さな池には、天然記念物のモリアオガエルが生息しており、初夏から夏にかけて池周囲の樹木に卵を産みつける。別名延命小袋といい、一見すると寿命が延びると言われています。
竹林の落ち椿、苔庭を埋め尽くす山桜の花びらと雪柳、そして一木に紅白の花を咲かせる桃が美しい。春も詩情豊かであるが、葦葺の本堂の周りに茂るカエデは秋の深まりとともに、緑から黄色、オレンジ、朱色、そして燃えるような真紅へと葉の色を変えてゆく紅葉の身頃長く、風に舞う散りモミジの風情もまた格別です。竹や木々の葉擦れの音、鳥の鳴き声だけが聞こえてくる自然に包まれた静かな本堂から庭を眺めていると、時間の経つにも忘れて心が静まり癒されることでしょう>
タクシーの運転手に訊いた話では「ここは京都で最も遅い紅葉ですわ」と言う名も知らなかったこの小さな寺に辿り着いて、ようやくこの年一番の美しい紅葉を堪能する事が出来たのであった。
0 件のコメント:
コメントを投稿