2003/09/02

薬師寺へ(古都へpart8)


 現境内を含む約12ヘクタールに及ぶ広範囲の土地が「東大寺旧境内」として国の史跡に指定されている。

近鉄奈良駅前の「ひがしむき商店街」辺りの中心部は、奈良と言えど若者が溢れていて幾らか都会らしい雰囲気は感じられたが、少し離れた西の京まで来るとすっかり鄙びた古都奈良の相しかない。

<東向商店街は平城京の外京六坊大路であり、東側はすぐ興福寺の境内となっている。このため通りの西側にのみ建物が建てられ、全ての建物が東を向いていたため「東向」と呼ばれるようになったという。その後、興福寺の勢力が衰退すると、通りの東側にも建物が建つようになった。1914年に大阪電気軌道が上本町~奈良間に開通すると、東向商店街は駅前商店街となり発展した。戦前の最盛期には、高島屋や大軌百貨店が出店するなど、奈良最大の繁華街となった。戦後も国際文化観光都市奈良を代表する商店街であり続け、現在に至る。なお、現在のアーケードは1984年に完成したものである>

薬師寺へ向かう切っ掛けは、TVの某CM金堂を挟んで東塔・西(さい)搭の二つの搭が並ぶ美しい芸術的な姿に魅入られ

(何としても、これを肉眼で拝まなくては)




という欲求に突き上げられたのであった。

といっても、当初はどこの何という寺院かまったく何の手掛かりもなく、押っ取り刀で県図書館に調べに行く。二つの三重搭が並び立つような寺院となると、京都・奈良とはいえそうはあるまいと見当を付けて手当たり次第に探し始めると、京都の方はどうもそれに該当するような寺院はなさそうに見えた。次いで奈良に手を付けたところで、お目当ての薬師寺が見つかったという次第である。言うまでもなく、ここが全国にある「薬師寺」の総本山である。それだけの由緒ある寺院なのに、粗末な拝観受付は何故か不在だ。呼んでも誰も出てこないので、不本意ながらタダで入ってしまう事になった。

<薬師寺は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇である。1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

薬師寺は7世紀末、飛鳥(奈良県橿原市城殿(きどの)町)の地に創建され、平城遷都後の8世紀初めに現在地に移転したものである。ただし飛鳥の薬師寺(本薬師寺、北緯342933.88秒東経135480.95秒 )の伽藍も、10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。

 『日本書紀』によれば、天武天皇9年(680年)、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願し、飛鳥の地に創建したのが薬師寺であるとされる。薬師寺遠望  薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘」にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)に没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。

『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この飛鳥の薬師寺跡は、大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に残り「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した現在地に移転した。移転の時期は、長和4年(1015年)成立の『薬師寺縁起』が伝えるところによれば、養老2年(718年)のことであった。

『扶桑略記』天平2年(730年)329日条に「始薬師寺東塔立」とあり、東塔(三重塔)が完成したのがその年のことで、その頃まで造営が続いていたものと思われる。なお平城京への移転後も、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)はしばらく存続していた。史料や発掘調査の結果からは、平安時代中期の10世紀ころまでは存続していたようだが、後に廃寺となった。

本薬師寺跡には金堂・東塔の礎石、西塔の心礎が残り、堂塔の平面規模、金堂と塔との距離などが平城薬師寺と、ほぼ等しいことがわかっている。平城京の薬師寺は、天禄4年(973年)の火災と享禄元年(1528年)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみである。平城京の薬師寺にある東塔及び本尊薬師三尊像が飛鳥の本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについては明治時代以来論争がある。

21世紀の現在では、東塔は平城京での新築とするのがほぼ通説となっているが、論争は完全に決着したわけではない。11世紀成立の『薬師寺縁起』に引用される奈良時代の資財帳に「薬師寺には塔が4基あり、うち2基は本寺にある」  という趣旨の記載があり、ある時期までは平城と飛鳥の両薬師寺にそれぞれ2基の塔があったと解釈されることから、町田甲一らはこれを非移建説の根拠の1つとしている。
現存する東塔に他所から解体移築した痕跡の見られないことからも、東塔については『扶桑略記』の記述どおり平城移転後の新築と見る説が有力である。ただし、平城薬師寺の境内からは本薬師寺から出土するのと同様の古い様式の瓦も出土しており、平城薬師寺の伽藍が全て新築で、飛鳥からの移築は全くなかったとまでは言い切れない。
※Wikipedia引用

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