2003/11/21

山吹の里・面影橋



 <面影橋は、江戸時代には「姿見橋」と呼ばれ、特に大きな蛍の名所だったようです。

橋名の由来は、昔この近くに住む和田某の娘お戸姫が、その美貌ゆえに次々と災難に会うのを苦に髪を切り、深夜この橋の上で変わり果てた自分の面影を川面に映した、という悲話によると聞きます。

その面影橋のたもとには「山吹の里」の碑が建っています。

この辺から下流の江戸川橋までの一帯は、昔「山吹の里」と呼ばれていたようです。
江戸川橋の右岸が「新宿区山吹町」と呼ばれるように、今もその名残が地名に残っています>

<この地には、こんな逸話があります。

江戸城を築いて、東京の基礎を作ったと広く知られている太田道灌は、関東管領・扇谷上杉氏に仕え、文武両道に秀でた室町中期の武将で、江戸っ子から「道灌さま」と親しまれていた。

若い頃の道灌は武勇の名声は高かったものの、学問や風流を解せずただ野山をかけては狩猟を楽しんでいた。

そんな道灌が、歌道に励む動機となったのが「山吹の花」のエピソードである>

<その昔、かの有名な太田道灌が武辺一徹だった頃、この辺りまで狩りに来たそうです。

急な雨に往生して困り果て、ふと一軒の民家を見つけ、蓑(みの・雨具の一)の借り受けを所望しました。

ところが、うら若い女性(老婆という説も有る)は、ただ黙ったまま蓑の替わりに一輪の山吹の花を太田道灌に差し出したといいます。

しかし、道灌はその意味がさっぱり分からず 「花を求めたのではない」 と不機嫌のまま帰城してしまいます。

城に帰って側近の者にその話しをすると、その側近は

「それは、後拾遺集の醍醐天皇皇子・中務卿兼明親王が詠まれた

『七重八重花は咲けども山吹の  みの(実・蓑)ひとつだになきぞかなしき』  

という有名な古歌(後拾遺集)にかけて

「花が咲いても実のつかない山吹のように、余りにも貧しくてお貸しする蓑のひとつもございません」

という返答でございます」

と言上しました。

それを聞いた道灌は、あの貧しい村娘さえ知る歌を知らなかった己の不勉強を深く恥じて、この後猛烈に学問に励んで当代一の知勇兼備の歌人になった、と言われています>
  http://www.jk-tokyo.tv/ 引用

 なかなか印象的な話だが、残念ながら「山吹の里」の場所については、ここ以外にも横浜市六浦、埼玉県越生町、荒川区町屋などとする説もあって一定せず、伝承内容自体の信憑性が乏しい。

 《八っつぁんが隠居の家を訪ねた時、床の間の掛け軸の説明を聞いた。

太田道灌の鷹狩の図で、娘が山吹の枝を道灌に差し出している絵である。  

「道灌が山吹の里で狩りの途中、雨に会った。

雨具を借りようと、一軒の貧しい家に立ち寄った。

その家の娘が『お恥ずかしい』と言いながら山吹の枝を差し出した。

これは、雨具がないので、お貸しできないとの断りを現している場面だ。

これはずーっと昔、兼明親王が雨具を借りにきた者へ、山吹の枝を折って与えて帰したことがある。

その人が後で『どういう意味ですか』と訊きにきたので、返事として[七重八重花は咲けども山吹の、みの一つだになきぞ悲しき] という歌を詠んでやった。  

[実の]と[簑]を掛けて『雨具がございません』ということだ。

この故事は[後拾遺和歌集]に載っている。

それを知っていた娘が、とっさのトンチで行ったことなんだ。

しかし道灌には、その古歌も娘の意図もわからない。

家来がその説明をすると、道灌は『余は歌道に暗い』と気づき、その後、歌を懸命に学んで一流の歌人になったんだ」

 「あっしも傘を借りに来たやつをその歌で断わるから、紙に書いてくんねぇ」    

八っつあんは、その紙を貰って帰る。

帰宅すると、うまい具合に雨が降り出した。

そこへ、友達が「提灯を貸してくれ」と飛び込んでくる。

「傘を」ではなく当てが外れたが、どうしてもあの歌を使ってみたいので、書いてもらった紙を差し出して、相手に読ませる。

「なんだい、これは。
なけりゃ食へ 腹は空けども 鰹節の 味噌ひと樽と 鍋と釜敷?
これは勝手道具の都々逸か」

「これを知らないところをみると、歌道に暗いな」

「角(歌道)が暗いから、提灯を借りに来た」》

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