2003/11/25

滝口寺(京の錦秋part6)


 祇王寺同様、滝口寺も『平家物語』の悲恋の物語として良く知られています。

《京都の嵯峨にある滝口寺も、平家物語ゆかりの寺です。建礼門院に仕えていた横笛に恋した武士は叶わぬ恋と、主君への忠義を欺いた自責の念で滝口入道として出家し修行を誓う。修行の妨げになると、逢ってはもらえぬ横笛は悲しみのあまり、嵐山上流の千鳥が渕に身を投げた。平家滅亡という大叙事詩に添えるエピソードとして、儚くも悲しい滝口、横笛の物語は、嵯峨野という都の西の果てで語り継がれる。

建礼門院に仕えていた女性には、魅力的で美人が多かったのだろうか。琴聴き橋の小督局もそうだったように、この滝口寺ゆかりの横笛も美しい女性だったのだろう。

清盛の息子、平重盛に仕えていた武士の斉藤時頼は、清盛主催の花見の宴で横笛の舞を見て一目惚れする。時頼は恋文を出して心を打ち明け、横笛もそれにこたえた。二人は燃え上がり契りを結ぶが、身分が違い名門の名を辱めると父に厳しく叱責される。主君重盛に背いた自責の念に時頼は、横笛に知らせることなく出家して嵯峨の往生院に入り、煩悩を捨て仏道修行を誓った。歳は19歳だった。

時頼が出家したと知った横笛は、あちこちの寺を尋ね歩き嵯峨へやって来た。 とある小さな庵から、聞き覚えのある念誦の声。横笛はその声が時頼と確信し、寺の者に「ひと目逢いたいと都から捜してまいりました」と告げる。しかし時頼は「会うは修行の妨げなり」と涙しながら、同宿の僧に「そのような者はいない」と告げさせて横笛を追い返した。

「山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に我を導け」

横笛は悲しみのあまり、指を切った血で傍にあった石に、こう記した。住まいを知られた時頼は、女人禁制の高野山へ移る。横笛はそれを知り、悲しみのあまり嵐山上流の千鳥ヶ渕に身を沈めた。その後、時頼は高野聖となり全国を旅し平家の滅亡をまるで見届けるように、むかし仕えていた平重盛の嫡男である平維盛の入水自殺に立ち会っている。

斉藤時頼は宮中の滝口の警護に当たる武士だったので、出家して「滝口入道」と名乗り滝口寺の由来になった》

これが「滝口入道と横笛のお寺」と呼ばれる所以で、本堂には滝口入道と横笛の像が安置されており、門前には横笛の歌石があります。

こじんまりと纏まった祇王寺に対し、広々と開放的な境内の高みから嵯峨野を一望できる滝口寺の庭園は、ワタクシ好みである。

祇王寺は、京都市右京区にある真言宗大覚寺派の仏教寺院で、尼寺である。 山号は高松山、院号は往生院、本尊は大日如来。元々は浄土宗の僧・良鎮が創建した往生院の跡を引き継いで今日に至る。また源氏物語には、平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王と仏御前が出家のため、入寺したとしても知られている。

その後、往生院は衰退をたどり明治時代の初期に一時廃寺となるが、嵯峨大覚寺の支配を受け真言宗に改宗し、1905年(明治38年)に富岡鉄斎らの尽力もあって復興を遂げた。
出典Wikipedia

《嵯峨野巡りの名所の一つ、小倉山の麓の竹と楓が綺麗なささやかな草庵です。急いで見学すると、5分くらいでお終いだけど四季折々の表情が素敵です。  その昔は桜の木もあったが、今は無く・・・祇王寺には、儚い恋物語があります。  ちょっと頭の片隅に、このもの語りを入れて見学すると、より一層風情が味わえます》

《祇園精舎の鐘の音、諸行無常響きあり・・・と始まる平家物語、この後をご存じでしょうか。実は、この後にある平清盛と2人の女性の恋物語が、祇王寺と深い関わりがあるのです。

時は平安時代平氏が全盛の時代、京の都に白拍子の姉妹がいた。舞が上手で、やがて清盛の聞くところになり、気に入った清盛は姉の祇王を自分の館で寵愛するようになる。妹の祇女や母も、幸せに暮らしていた。祇王姉妹、母は近江(現在の滋賀県野洲のあたり)の出身で 、父は罪人で牢獄と言う身の上であったから今は超幸せだった[現在の野洲には祇王井川と言う川が実在する]

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