この頃、すっかり恒例化した関西旅行は春・夏・秋と冬を除いて、ほぼ年3回のペースで続いていた。当初は大阪・神戸を観て廻り、有名どころを殆ど見尽くしてからは専ら京都の寺社への庭園巡りとなった。最初のうちの庭園趣味が、幾つも廻っているうちに次第に建築などへも関心が拡がっていくと、次には愛読していた松本清張の小説に再三出て来る仏像などへといった具合に、興味の幅が広がっていく事になる。寺社も観光客向けに華やかに飾られた京都の有名観光寺社ばかりではなく、大寺院の片隅にひっそりと佇んでいる地味な塔頭などへも食指を伸ばしていった。
そういった経過を経て、今度は奈良へと目を向けることになる。どちらも山に囲まれた盆地に寺社の多い土地柄から「京都・奈良」などとよく一緒くたにされるが「奈良の仏像・京都の庭」と言われるように、同じ寺社といっても京都と奈良とではまったく雰囲気が違う。名だたる有名寺社はほぼ市内の狭い区画に集中しているだけに、どこもが観光向けに隅々にまで手入れの行き届いた京都に対し、人里離れた山奥といった郊外に至るかなりの広範囲に有名寺社が散らばっている奈良の方は、全体に地味というか野性がそのまま残っているような魅力がある。
事実上、初めての奈良旅行となった前年の東大寺・興福寺・春日大社・薬師寺辺りは初心者や修学旅行などの定番コースだから、まだ入りやすかった。二度目の奈良行となったこの年の法隆寺は、東大寺や興福寺と違い兵火や天災に見舞われる事なく、往時の姿をほぼ原型のままに留めている。
西大寺は、奈良県奈良市西大寺芝町にある、真言律宗総本山の寺院である。
奈良時代に称徳天皇の発願により、僧・常騰(じょうとう)を開山(初代住職)として建立された。南都七大寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代に興正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)によって復興された。山号を勝宝山と称する(ただし、奈良時代の寺院には山号はなく、後になって付けられたものである)。現在の本尊は、釈迦如来である。
西大寺は、天平神護元年(765年)に称徳天皇の勅願により創建された寺院である。恵美押勝の乱平定を祈願して孝謙上皇(称徳天皇)が造立した金銅四天王像を安置している。この四天王像は西大寺四王堂に今も安置されるが、増長天像が足元に踏みつける邪鬼だけが創建当時のもので、像本体は後世の補作である。
「西大寺」の寺名は言うまでもなく、大仏で有名な「東大寺」に対するもので、創建時は薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持ち、南都七大寺の1つに数えられる大寺院であった。しかし平安時代に入って衰退し、火災や台風で多くの堂塔が失われ、寺は興福寺の支配下に入っていた。西大寺の中興の祖となったのは、鎌倉時代の僧・叡尊(興正菩薩、1201-1290)である。
叡尊は建仁元年(1201年)、大和国添上郡(現・大和郡山市)に生まれた。11歳の時から醍醐寺、高野山などで修行し、文暦2年(1235年)、35歳の時に初めて西大寺に住した。その後、一時海龍王寺(奈良市法華寺町)に住した後、嘉禎4年(1238年)西大寺に戻り90歳で没するまで50年以上、荒廃していた西大寺の復興に尽くした。叡尊は、当時の日本仏教の腐敗・堕落した状況を憂い、戒律の復興に努めた。また貧者、病者などの救済に奔走し、今日で言う社会福祉事業にも力を尽くした。西大寺に現存する仏像、工芸品などには本尊釈迦如来像をはじめ、叡尊の時代に制作されたものが多い。
その後も忍性などの高僧を輩出するとともに、荒廃した諸国の国分寺の再興に尽力し、南北朝時代の明徳2年(1391年)に出された「西大寺末寺帳」には8ヶ国、同時代のその他の史料から更に十数ヶ国の国分寺が西大寺の末寺であったと推定されている(なお、現存の国分寺のうち、西大寺と関係を持つのは旧伊予国分寺のみであるが、他にも複数の国分寺が真言宗各派に属している)。
西大寺は、室町時代の文亀2年(1502年)の火災で大きな被害を受け、現在の伽藍はすべて江戸時代以降の再建である。なお、西大寺は1895年(明治28年)に真言宗から独立し、真言律宗を名乗っている。真言律宗に属する寺院は、大本山宝山寺(奈良県生駒市)のほか、京都・浄瑠璃寺、奈良・海龍王寺、奈良・不退寺、鎌倉・極楽寺、横浜・称名寺などがある。
本堂(重文)
寄棟造、本瓦葺。室町時代の焼失後に再建された堂が傷んだため、修理ではなく新築することとし、寛政10年(1798年)頃造営に着手、文化5年(1808年)頃完成したものである。土壁を一切用いず、装飾性の少ない伝統的な様式になる。 江戸時代後期の大規模仏堂建築の代表作として、1998年重要文化財に指定されている。この堂は、かつては宝暦2年(1752年)の建築とされていたが、正しくは前述のように19世紀初頭の建築である。
西大寺の本尊。建長元年(1249年)、仏師善慶の作。いわゆる「清凉寺式釈迦如来像」の典型作で、京都・清凉寺にある三国伝来の釈迦像(「三国」はインド、中国、日本を指す)の模刻である。像内には、多数の納入品が納められていた。西大寺の鎌倉復興期の仏像は、本像の作者善慶を始め名前に「善」字を用いる「善派」と呼ばれる一派の作が多い。

文殊菩薩及び脇侍像5体(重文)

文殊菩薩及び脇侍像5体(重文)
正安4年(1302年)の作。 像内には、多数の納入品が納められていた。
出典 Wikipedia
出典 Wikipedia
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