西院伽藍
五重塔南大門を入り、正面のやや小高くなったところに位置する。向かって右に金堂、左に五重塔を配し、これらを平面「凸」字形の回廊が囲む。回廊の南正面に中門を開き、中門の左右から伸びた回廊は北側に建つ大講堂の左右に接して終わっている。回廊の途中、「凸」字の肩の辺りには東に鐘楼、西に経蔵がある。以上の伽藍を西院伽藍と呼んでいる。金堂、五重塔、中門、回廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建であるが、世界最古の木造建造物群であることは間違いない。
入母屋造の二重門。日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間、7間等)になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点が特異である。門内の左右に、塑造金剛力士立像を安置する。日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重なものであるが、風雨にさらされる場所に安置されているため、補修が甚だしく、吽形(うんぎょう)像の体部は木造の後補に代わっている。門は現在、出入り口としては使用されず、金堂等の拝観者は回廊の西南隅から入る。
金堂(国宝)
入母屋造の二重仏堂。ただし上層に部屋等がある訳ではなく、屋根を二重にしたのは外観を立派にするためである。金堂に見られる組物(軒の出を支える建築部材)は、雲斗、雲肘木などと呼ばれ、曲線を多用した独特のものである。この他、二階の卍くずしの高欄(手すり)、それを支える「人」字形の束(つか)も独特である。これらは法隆寺金堂・五重塔・中門、法起寺三重塔、法輪寺三重塔のみに見られる様式で、7世紀建築の特色である。
二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は、構造を補強するため鎌倉時代の修理の際に付加されたものである。金堂の壁画は、日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものであったが、1949年、壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損した。黒こげになった旧壁画(重文)と柱は現存しており、寺内大宝蔵院東側の収蔵庫に保管されているが、非公開である。なお解体修理中の火災であったため、初層の裳階(もこし)部分と上層の総て、それに堂内の諸仏は難をまぬがれた。この火災がきっかけで文化財保護法が制定され、火災のあった1月26日が文化財防火デーになっている。堂内は中の間、東の間、西の間に分かれ(ただし、これらの間に壁等の仕切りがあるわけではない)、それぞれ釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来を本尊として安置する。
釈迦三尊像(国宝)
623年、止利仏師作の光背銘を有する像で、日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作である。図式的な衣文の処理、杏仁形(アーモンド形)の眼、アルカイックスマイル(古式の微笑)、太い耳朶(耳たぶ)、首に三道(3つのくびれ)を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示し、大陸風が顕著である。
薬師如来坐像(国宝)
薬師如来坐像(国宝)
東の間本尊。本像の脇持とされる日光・月光菩薩像は別に保管されるが、作風が異なり本来一具のものではない。
阿弥陀三尊像(重文)
阿弥陀三尊像(重文)
鎌倉時代の慶派の仏師・康勝の作。元来の西の間本尊が中世に盗難にあったため、新たに作られたもの。全体の構成、衣文などは鎌倉時代の仏像にしては古風で、東の間の薬師如来像を模したと思われるが、顔の表情などは全く鎌倉時代風になっている。なお、両脇侍像のうち1体は明治時代に寺外に出て、現在フランス・ギメ美術館蔵となっており、現在金堂にあるのは模造である。

四天王立像(国宝)

四天王立像(国宝)
飛鳥時代の作。釈迦三尊像、薬師如来像が銅造であるのに対し、木造彩色である。後世の四天王像と違って、怒りの表情やポーズを表面にあらわさず、邪鬼の上に直立不動の姿勢で立つ。
毘沙門天・吉祥天立像(国宝)
毘沙門天・吉祥天立像(国宝)
中の間本尊釈迦三尊像の左右に立つ、平安時代の木造彩色像。なお、中の間と西の間の本尊の頭上にある天蓋(重文)も飛鳥時代のものである(東の間の天蓋は鎌倉時代)
五重塔(国宝)
五重塔(国宝)
木造塔として日本最古のもの。初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝)
この塑像に使用された粘土は、寺の近くの土と成分がほぼ等しいことから近くの土で作られたと推測される。東面は「維摩経」に登場する、文殊菩薩と維摩居士の問答の場面、北面は釈迦の涅槃、西面は分舎利(インド諸国の王が釈尊の遺骨を分配)の場面、南面は弥勒の浄土を表わす。北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が特に有名である。五重塔内部にも壁画(現在は別途保管、重文)があったが、上から漆喰が塗られたりしたため剥落が激しい。

回廊(国宝)

回廊(国宝)
金堂などとほぼ同時期の建立。廊下であるとともに、聖域を区切る障壁でもある。ただし大講堂寄りの折れ曲がり部分より北は、平安時代の建立である。当初の回廊は大講堂前で閉じており、大講堂は回廊外にあった。
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