2003/11/29

曼殊院の文化財(京の錦秋part10)

 曼殊院に伝存する茶室、古今伝授資料(古今和歌集の秘伝を相承するための資料)、立花図(池坊流2世池坊専好の立花をスケッチしたもの)などの文化財は、法親王の趣味と教養の広さを示している。

境内は、比叡山西麓に位置する。入口である勅使門の左右の塀は5本の水平の筋が入った築地塀で、門跡寺院としての格式の高さを表している。

主要な建物としては玄関、大書院、小書院、庫裏、護摩堂などがある。中心になる仏堂はなく、本尊は大書院の仏間に安置されている。枯山水庭園は、小堀遠州の作といわれる。

大書院(本堂)
明暦2年(1656年)の建築。仏間に本尊阿弥陀如来立像を安置することから「本堂」とも呼ぶが、解体修理の際に発見された墨書等から、建設当時は「大書院」と称されたことがわかる。寄棟造、杮(こけら)葺きの住宅風建物である。正面東側に「十雪の間」、西側に「滝の間」があり、「十雪の間」背後には「仏間」、「滝の間」背後には「控えの間」がある。

建物内の杉戸の引手金具にはひょうたん、扇子などの具象的な形がデザインされ、桂離宮の御殿と共通したデザイン感覚が見られる。

「十雪の間」の床の間には木造慈恵大師坐像(重要文化財)を安置し、仏間には本尊阿弥陀如来を中心とする諸仏を安置する。

小書院
 大書院(本堂)の東北方に建つ。大書院と同時期の建築で寄棟造、杮(こけら)葺きである。 間取りは東南側に八畳の「富士の間」、その北に主要室である「黄昏の間」がある。黄昏の間は、七畳に台目畳二畳の上段を備え、床(とこ)・棚・付書院を持つ。床脇の棚は、多種類の木材を組み合わせたもので「曼殊院棚」として知られる。


建物西側は二畳の茶立所を含む、幾つかの小部屋に分かれている。二畳室は板床があり、炉が切ってあって茶室としても使用できるようになっている。「富士の間」「黄昏の間」境の欄間の透かし彫りや、七宝製の釘隠し(富士山をかたどる)も、この建物の特色である。小書院の北側には、前述の二畳の茶立所とは別の茶室が付属し「八窓席」の名で知られる。

八窓席
小書院の北側に隣接して建つ茶室。大書院・小書院と同時期の建築と考えられる。 平三畳台目、中柱、下座床の席。小堀遠州風の意匠が随所に見られる。東側の壁の連子窓の上に下地窓を重ねる手法は珍しく、遠州好みとされている。 天井は東側(躙口側)を化粧屋根裏、西側(床の間側)を平天井とする。この平天井が点前畳の上まで続き、点前座を落ち天井としないのは古い手法である。躙口上の連子窓は、虹のような影が生じることから「虹の窓」と呼ばれて名高い。



国宝 絹本著色不動明王像(黄不動)
滋賀・園城寺(三井寺)に秘蔵される、黄不動像(平安時代前期)を元に制作された画像の1つであり、平安時代末期、12世紀頃の制作と推定されている。 京都国立博物館に寄託。

古今和歌集(曼殊院本)1
色変わりの染紙に優美な和様書体で書写された古今和歌集の写本で、11世紀に遡る遺品である。高野切本古今和歌集などと並び、平安時代の仮名の名品として知られる。京都国立博物館に寄託>

 紅葉の名所として有名な曼殊院だが、本数自体はそれほど多くはないが枯山水の有名な庭園とのマッチングが、素晴らしく絵になった。誰もが溜息を付いて立ち止まるのは頷けるが、寧ろあまりにも一点非の打ちどころがないのが欠点と言えば欠点か。次第に息苦しくなってくるような緊張感が胸に迫る。

<大書院前には遠州好みの枯山水庭園が広がっており、水の流れを表した砂の中に鶴島と亀島を配している。小書院は静かに水面を遡る屋形舟を表現している。鶴島にある樹齢400年の五葉松は、鶴を表現している。そして、その根元には曼殊院型のキリシタン灯篭がある。公家風で趣味豊かな良尚親王の趣向を反映している。


大書院の周辺には、霧島つつじが植えられており、5月の始め頃に深紅の花を咲かせる。霧島つつじは宮崎県が原産で、他のつつじに比べてやや小ぶりの花をつける。その優雅な姿は、美女に例えられる。赤絨毯のように花をつけた霧島つつじは、枯山水庭園と調和して殊のほか美しい。その他にも、椿、梅、ソメイヨシノ、サルスベリ、リンドウ、サザンカなどの花が四季を通じて咲き誇る。また曼殊院は、紅葉の名勝としても有名である>
出典 https://manshuinmonzeki.jp/index.html
 
ここで極限までに高まった緊張感が、観賞式庭園で長閑に泳ぐ鯉を見ているうちにスーっと抜けていき、一息ついた。

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