2003/11/24

清凉寺と二尊院(京の錦秋part5)

国宝・木造釈迦如来立像および像内納入品
いわゆる「三国伝来の釈迦像」である。像高約160cmで、魏氏桜桃という日本にはない材で作られているという。縄目状の頭髪や同心円状の衣文の形式など、一見して日本の通例の仏像と異なる様式を示す。然が宋に滞在中の985年、台州開元寺で作らせたもので、刻銘、納入品等の記載から、張延皎および張延襲という作者の名もわかっている。

この釈迦像の模造は、奈良・西大寺本尊像を始め日本各地に100体近くあることが知られ「清凉寺式釈迦像」と呼ばれる。また、この像の胎内からは造像にまつわる文書、然の遺品、仏教版画など多くの「納入品」が発見され、これらも像とともに国宝に指定されている。

納入品のうち「五臓六腑」(絹製の内臓の模型)は、医学史の資料としても注目される。その他、然の遺品としては、生誕書付(臍の緒書き)や手形を捺した文書なども発見された>

他の寺社と同様に何度かの戦火に焼かれてきたものの、それでも広い境内に楼門・多宝塔・本堂などが並ぶ様は、往時の面影を伝えるには充分である。

 面白いのは前の年に大覚寺に訪れた時に、拝観者が素通りしていく広い写経場で筆を動かしている人は、一人か二人か数えるほどしかいなかったので

(さすがにこの時期に紅葉を見に来て、写経なんて辛気臭いする真似をするヤツもいないか・・・)

と漠然と考えていたものだったが、この清涼寺本堂に限ってはそれほど広くもない写経場にもかかわらず人が溢れ返って、順番待ちで立っている拝観者までいるから面食らった。

(ハテ?
なんでこんなにいるんだか・・・?)

と眼を凝らすと、忽ち疑問が氷解した。そこには

《写経無料!
自由にご利用ください》

と書いてあったのだった(ま、ワタクシはタダでも写経などご免蒙るが)

 <二尊院は、京都市右京区の嵯峨野にある天台宗の寺院。山号は小倉山。詳しくは、小倉山二尊教院華台寺という。二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像による。境内の墓地には、角倉了以、三条実美、阪東妻三郎らの墓がある。

総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、紅葉の名所として知られる。 また、奥には、百人一首ゆかりの、藤原定家の時雨亭跡とされる場所がある。



平安時代初期の承和年中(834 - 847年)、嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したと伝える。以後、荒廃するが、鎌倉時代初期、法然の高弟である湛空らにより再興される。応仁の乱により堂塔伽藍が全焼するが、本堂と唐門が約30年後の永正18年(1521年)に三条西実隆によって再建された。

本堂
永正18年(1521年)、三条西実隆によって再建。

勅使門(唐門)
永正18年(1521年)、三条西実隆によって再建。

総門
伏見城の薬医門を移築したものとされる。

八社ノ宮
室町時代建立。境内には公家の二条家、三条家、四条家、三条西家、鷹司家の墓地のほか、伊藤仁斎・伊藤東涯父子、角倉了以・角倉素庵父子の墓などがある。  また境内奥には土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇の分骨を安置する三帝陵がある。

重要文化財 木造釈迦如来立像・阿弥陀如来立像
本堂に安置(鎌倉時代の作)。向かって右に発遣(ほっけん、現世から来世へと送り出す)の釈迦如来、左に来迎(西方極楽浄土へ迎え入れる)の阿弥陀如来が並び立つ。両像はよく似ているが、両脚部の衣文の形式などに変化をつけている。通常の阿弥陀如来像は親指と人差し指(または中指、薬指)で輪をつくる印相を結ぶが、当寺の阿弥陀如来像は下げた右手の指を5本とも真っ直ぐ伸ばしている点が珍しい>
出典Wikipedia

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