法隆寺の根本史料である天平19年(747年)の『法隆寺資財帳』には、百済観音に相当する仏像についての記載はない。11世紀後半成立の『金堂日記』には、当時法隆寺金堂内にあった仏像に関する詳細な記録があるが、ここにも百済観音に関する言及はなく、鎌倉時代の法隆寺の僧・顕真による『聖徳太子伝私記』も、同様に百済観音には触れていない。百済観音に該当すると思われる像の存在が記録で確認できるのは、ようやく近世になってからである。元禄11年(1698年)の『法隆寺諸堂仏躰数量記』に「虚空蔵立像 長七尺五分」とあるのが、像高からみて百済観音に当たると推定され、これが百済観音の存在を記録する最古の文献とされている。
『法隆寺諸堂仏躰数量記』は、この「虚空蔵菩薩像」を「百済国から渡来した天竺(インド)製の像である」としている。延享3年(1746年)、法隆寺の僧・良訓(りょうきん)が著した『古今一陽集』にも「虚空蔵菩薩」とあり、「この像の由来は古記にはないが、古老の伝えるところでは異国将来の像である」と述べていて、当時すでにこの像の由来は不明であったことがわかる。この像の旧所在については飛鳥の橘寺とする説(『法隆寺大鏡』、1917年)、斑鳩の中宮寺から移したものとする高田良信(法隆寺208世管主)の説などがあるがいずれも確証はなく、本像がいつ、どこで、誰によって造られ、どこの寺に安置されていたものか、正確なことは全く不明である。
近世から明治時代まで、法隆寺ではこの像を観音ではなく「虚空蔵菩薩」と呼んでいた。これは虚空蔵菩薩を聖徳太子の本地とする信仰に基づくものと思われる。明治19年(1886年)、宮内省、内務省、文部省による法隆寺の宝物調査が実施された際の目録には「朝鮮風観音」とあり、この頃からこの像を「観音」と見なす説のあったことがわかる。この「朝鮮風観音」という名称については、確証はないが当時奈良地方の文化財を調査していた岡倉天心の発案によるものかと推定されている。
前述の通り、この像が明治30年(1897年)、当時の国宝に指定された際の名称も「観世音菩薩」であった。しかし、法隆寺側では「虚空蔵菩薩」の呼称に拘りをもっており、明治38年(1905年)4月14日、住職佐伯定胤名で当時の奈良県知事あてに「観世音」から「虚空蔵」への名称訂正願を提出しているが、寺側の願いは聞き入れられなかった。その後明治44年(1911年)になって、寺内の土蔵から本像の宝冠が新たに発見され、その宝冠の正面に阿弥陀如来の化仏(けぶつ、小型の仏像)が刻まれていることから、寺側でもこの像を「観音菩薩」と認めざるをえなくなった(菩薩像の頭上に阿弥陀如来の化仏があれば、その像は観音菩薩像であることを示している)。
この像の通称として20世紀以降著名になる「百済観音」という呼称はさほど古いものではなく、大正6年(1917年)の『法隆寺大鏡』の解説が初出であるとされている。和辻哲郎の『古寺巡礼』は大正8年(1919年)に刊行されたものだが、『法隆寺大鏡』の記述に影響されてか、この像を「百済観音」と呼んでいる。考古学者の濱田青陵(濱田耕作)は大正15年(1926年)、『仏教芸術』誌上に「百済観音像」を発表し、後に発表した随筆集に『百済観音』という題を付けた。
このようにして、本像について「百済観音」という名称が次第に定着していった。本像は法隆寺金堂本尊の釈迦三尊像のような、止利式の仏像とは様式を異にしている。止利式の仏像は正面観照性が強く、側面感が殆ど考慮されていない点、左右相称性が強く図式的な衣文表現などに特色があるが、百済観音像では側面感はより自然になり、立体的な人体把握が進んでいる。
7世紀も早い頃の制作とされる法隆寺夢殿本尊の救世観音像を見ると、全体に正面性・左右対称性が顕著で、肩に垂れる垂髪は「蕨手状」と称される図式的なものであり、両腕から体側に垂れる天衣は鰭(ひれ)状の突起を表しながら、左右方向へ平面的に広がっている。これに対し、百済観音像の垂髪はより写実的に表現され、天衣はゆるやかなカーブを描いて前後方向に揺れるように表現されており、天衣のカーブの優美さは側面から見て初めて了解される。両手も各指が違ったカーブを描き、写実的に表現されている。こうした点から、百済観音は夢殿本尊像などよりはやや年代が下るが、初唐彫刻の影響が見られる薬師寺東院堂の聖観音像や法隆寺の夢違観音像などよりは古く、おおむね7世紀半ばから後半の作とする点で研究者の意見はほぼ一致している。
出典 Wikipedia
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