2003/11/26

祇王寺と常寂光寺(京の錦秋part7)


ある時、加賀(現在の石川県)より仏御前という白拍子が舞を見てほしく、清盛の館を訪ねた。

「お願いです。私の舞を見て下さい」

「一白拍子の身分で、我が館まで押し掛けてくるとはこざかしい、追い返せ!」

清盛は、仏御前という白拍子を追い返そうとした。

すると祇王が

「お待ち下さい。そんなことを言わずに、遠いところお越しになったのですから、見て上げたらいかがですか」

心の優しい祇王は、仏御前を館に上げるように取りはからった。この事が、後で仇となるのである。

「う~ん、かわいい祇王が言うのであればしょうがない。舞って見よ」

「ありがたき幸せ・・・」

仏御前が舞い始めた。それが、すばらしい舞であった。清盛は、あまりにも美しい舞に見とれてしまった。

この出来事で、清盛は仏御前に心奪われてしまい寵愛するようになり、逆に祇王への愛はどんどん醒めていき、最後には館を追い出されてしまった。祇王は自分の優しさが仇となり、捨てられてしまったのである。

館を出る時に、せめてと思い障子に次の歌を残す。

萌え出づるも枯るるも同じ野辺の花 いづれか秋にあわではづべき

翌春、追い打ちをかける様に清盛から使者が来る。

「命をいい渡す。館で仏御前が退屈しておる。来て舞え」

権力には勝てず、涙を堪えて清盛、仏御前の前で舞った祇王。居並ぶ諸臣も、涙を流したと言う。

その後、祇王21歳で妹、母と共に髪を剃り、この地で尼となる。その後、仏御前も出家する。祇王寺は、悲しい過去を背負う寺である。祇王、祇女、母の木像や墓、仏御前の木像、清盛の木像と供養塔などが安置されている》

 


祇王寺を出て、常寂光寺に向かって歩いていく人並みを縫って行くはずの、レンタサイクルも思うように捗らないひと際狭い道を、大勢の観光客がゾロゾロと歩いていた・・・

 常寂光寺(じょうじゃっこうじ)は、京都府京都市の嵯峨野にある日蓮宗の仏教寺院。山号は小倉山。百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって、境内からは嵯峨野を一望でき、秋は全山紅葉に包まれる。その常寂光土のような風情から、寺号が付けられたとされる。

平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる地で、安土桃山時代末の慶長元年(1596年)に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が隠棲の地として当山を開いた。歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以と角倉栄可で、小早川秀秋ら大名の寄進により堂塔伽藍が整備された>
出典 Wikipedia

 普段はそれほど拝観者も多くはないのだろうが、なにせ人気の嵐山でも随一の紅葉の名所として知られるだけに、この日に訪ねた6つの寺社の中では最も拝観者が多く、拝観受付から外まで長蛇の列が出来ていた。

小さな拝観窓口で、オバサン2人がモタモタと捌いているから仲々列が進まず、折角の紅葉を目の前にしながらも列に立っているオヤジの禿げ頭ばかりが目に付いてイライラしたが、ようやくの事で拝観料を払い自由に動けるようになると、評判通りの鮮やかな紅葉が至るところからパノラマで視界に飛び込んで来た。

 

元々、他の地域に比べると若い女性が目に付くのが嵯峨野地区の印象だったが、この尼寺は特に女性好みか一段とその傾向が強いようである。この年に観た紅葉の中では二尊院とこの常寂光寺が双璧と言えたが、自然の中に溶け込んでいたような野性のダイナミズムを感じさせる二尊院の紅葉に対し、こちらの方は計算し尽くされた芸術作品のような美しさと自然の情緒が渾然一体となって、対照的な魅力を醸していた。

 

石段を上がり紅葉をバックにした形の美しい多宝塔を撮影していると、はあはあと息を切らせて上がって来た小学生くらいの坊主が、レンズの前に立ちはだかってポーズをとった。

 

「コラコラ、邪魔するんじゃない」

と、思わず睨みつけると

「こんなの(塔)写してどうすんの?」

「子供にゃあわからんだろ。いいからどいてな・・・」

すると

xx、どうしたの~?)

という声とともに、坊主の両親らしき中年夫婦が・・・

「あら・・・xx、邪魔なんかしちゃダメよ・・・」

といいつつも、胡散臭げな上目遣いで見やる両親に、内心

(チッ、親バカめ!)

と思いつつ

「うーん、綺麗な紅葉が撮れたぞ」

と言い残して更に境内の高みに登って行くと、眼下は素晴らしい嵯峨野の遠望が一望に出来た。

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