2003/11/30

圓光寺と金福寺(京の錦秋part11)

 曼殊院から少し歩くと、これまた紅葉で有名な圓光寺という寺院がある。曼殊院とは対照的に竹林の鬱蒼と生い茂った境内一杯に拡がった、色とりどりの紅葉がダイナミックな感じである。

<圓光寺は、徳川家康が教学の発展を図るために設立した学校を始まりとする。家康から送られた当時の木製活字を数多く保存しており、これらは重要文化財に指定されている。明治以降、最近まではわが国唯一の臨済宗尼僧の修学道場であった。境内には、澄んだ音を響かせる水琴窟や金福寺に晩年を送った村山たかの墓もある。栖龍池がある庭園は、新緑、紅葉の美しいことで知られている>


 

 目的の詩仙堂まで歩く道中に小さな寺社が幾つかあり、偶々行き会った金福寺もそのひとつであった。

<金福寺(こんぷくじ)は、京都市左京区一乗寺にある臨済宗南禅寺派の寺である。山号は佛日山。本尊は聖観音菩薩。詩仙堂の少し南にあるこの寺には与謝蕪村の墓所があり、松尾芭蕉が滞在したとされ芭蕉を敬慕する与謝蕪村と、その一門によって再興された芭蕉庵がある。また舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインである、村山たか(村山たか女)ゆかりの寺として知られる。

864年(貞観6年)慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都が創建し、円仁自作の聖観音菩薩像を安置した。当初天台宗であったが、後に荒廃したために元禄年間(1688年~1704年)に円光寺の鉄舟によって再興され、その際に円光寺の末寺となり、天台宗より臨済宗南禅寺派に改宗した。

その後、鉄舟と親しかった松尾芭蕉が京都に旅行した際に庭園の裏側にある草庵を訪れ、風流を語り合ったとされ後に芭蕉庵と名付けられたが、荒廃していた為、彼を敬慕する与謝蕪村とその一門が1776(安永5)に再興した。

幕末に入り、舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインとして知られる村山たか(村山たか女)が尼として入寺し、その生涯を閉じた。

芭蕉庵
庭園の東側に立つ茅葺き屋根の庵で、内部は千利休が造った待庵に似た三畳台目の茶室となっている。元禄時代、鐡舟和尚と親交の深かった松尾芭蕉が京都を旅行した際に滞在したことで知られ、周辺の住民によって芭蕉庵と呼ばれるようになったが、後に形がないほど荒廃したため芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって、1776(安永5)再興された。


画像出典 https://eizandensha.co.jp/

与謝蕪村筆 洛東芭蕉庵再興記
与謝蕪村とその一門が芭蕉庵を再興した際に、蕪村が寄せた俳文。

宝塔
蛇が入っているもので、村山たか女が寄進した

名前を聞くのも初めてで小さな寺院だけに迷ったものの、時間が少しあったため入ってみたのは正解で、期待に反して素晴らしい庭園に出くわしたのは嬉しい誤算である。

サツキが幾重にも段に綺麗に刈り込まれて、花をつけた頃に再度訪ねてみたくなる。石段を登った上には鄙びた芭蕉庵があり、松尾芭蕉や与謝野蕪村ら名だたる俳人の詠んだ俳句が掲げられているのが目を惹くなど、案外見どころが多い。
出典Wikipedia

武蔵が吉岡一門と決闘した時の「一条寺下がり松」を持ってきたという八大神社に寄り、お目当ての詩仙堂へ向かう。

 「奈良の仏像・京都の庭」といわれるように、京都といえば他の地域では滅多にお目にかかる事の出来ない「名勝庭園」や、更に格上の「特別名勝」など実に数多くの名庭があるが、この詩仙堂庭園といえば庭園ファンにも人気の高いので良く知られている。

元々、この詩仙堂は、かつて徳川家康家臣の戦国武将だった石川丈山が隠棲を決め込むために造営した庵で、実際に晩年の30年間をここに蟄居して風流な余生を送ったといわれているところなど、やはり同じように戦国の世から身を引き東山殿(銀閣寺)を造営して、文人として隠棲した足利義政を彷彿とさせるところがある。

0 件のコメント:

コメントを投稿