聖徳太子は日本仏教の祖として、宗派や時代を問わず広く信仰されてきた。 太子の創建にかかる四天王寺は、平安時代以降、太子信仰のメッカとなる。また、四天王寺の西門が西方極楽浄土の東門(入口)であるという信仰から、浄土信仰の寺としての性格も加えていった。
太陽の沈む「西」は死者の赴く先、すなわち極楽浄土のある方角と信じられ、四天王寺の西門は西方の海に沈む夕陽を拝する聖地として、多くの信者を集めた。現在も寺に伝わり国宝に指定されている「四天王寺縁起」は、こうした信仰を広めるのに大いに力があった。
「四天王寺縁起」は伝承では聖徳太子の自筆とされ、寛弘4年(1007年)、金堂内で発見されたとするが、実際には後世の仮託で「発見」時からさほど隔たらない平安時代中期の書写とするのが通説である。既述の「四箇院」のことも、この「縁起」に見えるものである。院政期の上皇や法皇は、四天王寺にしばしば参詣した。後醍醐天皇は上述の「四天王寺縁起」を自筆で筆写し、巻末に手印を捺している(これは「後醍醐天皇宸翰(しんかん)本縁起」として現存し、国宝に指定されている。
平安~鎌倉時代の新仏教の開祖である天台宗の最澄、真言宗の空海、融通念仏の良忍、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍などが、四天王寺に参篭したことも知られている。
四天王寺は、近世以降も度々災害に見舞われた。天正4年(1576年)には、石山本願寺攻めの兵火で焼失。豊臣秀吉によって再建されるが、やがて慶長19年(1614年)大坂冬の陣で焼失。この時は、江戸幕府の援助で再建される。しかし幕末の享和元年(1801年)の落雷で、またも焼失。文化9年(1812年)に再建される。この時の伽藍が近代まで残っていたが、1934年の室戸台風で五重塔と中門が倒壊、金堂も大被害を受けた。五重塔は1939年に再建されるが、数年後の1945年、大阪大空襲で他の伽藍とともに焼失。現存の中心伽藍は、第二次世界大戦後の1957年から再建にかかり1963年に完成したもので、鉄筋コンクリート造である。
金堂中心伽藍
仁王門、五重塔、金堂、講堂からなる中心伽藍は第二次世界大戦後に再建された鉄筋コンクリート造建築だが、日本の飛鳥時代、高句麗、六朝などの建築様式を加味して創建当時(6世紀末)の様式に近付けようとしたものである。


設計は建築史家藤島亥治郎(がいじろう)。金堂本尊は江戸時代の史料には「如意輪観音」とするものが多いが、現在は「救世観音」とされている。
五重塔
初代は593年建立、現在あるものは1959年建立の八代目。
中心伽藍の東に位置する一画で「太子殿」とも言い、聖徳太子を祀る。中心伽藍は鉄筋コンクリート造だが、この一画は木造建築である。中心には、それぞれ聖徳太子像を祀る太子殿前殿と同奥殿がある。奥殿は1979年の完成で、一見法隆寺夢殿に似ているが夢殿の平面が八角形であるのに対し、この建物の平面は完全な円形である。また絵堂(1983年完成)には、杉本健吉筆の聖徳太子絵伝壁画がある。
六時堂(重要文化財)
六時堂(重要文化財)
1623年建立。椎寺薬師堂を移建したもの。中心伽藍の背後に位置する。堂の手前の「亀の池」の中央にある石舞台は「日本三舞台」の一つとされ、国の重要文化財である(他2つは、住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台)
この舞台では、毎年4月22日の聖霊会(しょうりょうえ、聖徳太子の命日法要)の日に雅楽が終日披露される。四天王寺の雅楽は、宮中(京都)、南都(奈良)と共に三方楽所とされた「天王寺楽所」によって伝えられ、雅楽の最古の様式を持ち、現在は「雅亮会」が伝統の様式を継承している。
五智光院(重要文化財)
1617年、徳川秀忠による再建。
本坊方丈(重要文化財)
本坊方丈(重要文化財)
1617年、徳川秀忠による再建。
元三大師堂(重要文化財)
江戸時代初期建立。
石鳥居(重要文化財)
石鳥居(重要文化財)
中心伽藍の西側、西門のさらに外に立つ。永仁2年(1294年)、それまでの木造鳥居を石鳥居にあらためたもので、神仏習合時代の名残である。鳥居上部に掲げられた額には「当極楽土 東門中心」とあり、ここが極楽の入口であるとの意である。ここは西の海に沈む夕陽を拝して、極楽往生を念じる聖地であった。 この他、境内には重要文化財の本坊西通用門をはじめ、大黒堂、英霊堂など多くの堂宇が点在する。
出典Wikipedia
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