四天王寺は大阪市天王寺区にある寺院で、聖徳太子建立七大寺の一つとされる。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音(ぐぜかんのん)である。 「金光明四天王大護国寺」ともいう。
『日本書紀』によれば、推古天皇元年(593年)に造立が開始されている。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。宗派は元は天台宗に属したが、日本仏教の祖とされる聖徳太子建立の寺であり「日本仏教の最初の寺」として、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に和宗総本山として独立宣言を出している。
四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のもので、その草創について『日本書紀』に次のように記されている。
用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。蘇我軍は、物部氏の本拠地であった河内国渋河(大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。
聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て白膠木(ぬるで)という木を伐って四天王の形を作り
「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」
という誓願をした。
その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。
その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始は、それから数年後であった)
以上が『書紀』の記載のあらましである。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。四天王寺の伽藍配置は中門、塔、金堂、講堂を南から北へ一直線に配置する「四天王寺式伽藍配置」であり、法隆寺西院伽藍(7世紀の焼失後、8世紀初め頃の再建とするのが定説)の前身である「若草伽藍」の伽藍配置も、また四天王寺式であったことはよく知られる。
当初の四天王寺は現在地ではなく、摂津の玉造(大阪城付近)の岸辺にあり、593年から現在地で本格的な伽藍造立が始まったという解釈もある(森之宮神社の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとしている)
また山号の「荒陵山」から、かつてこの近くに大規模な古墳があり、四天王寺を造営する際、それを壊したのではないかという説もある。四天王寺庭園の石橋に古墳の石棺が利用されていることが、その傍証とされている。
大阪にある帝塚山古墳は「大帝塚山」、「小帝塚山」地元で称されているものがあり、現在一般的に帝塚山古墳と呼ばれているのは「大帝塚山」である。その大帝塚山は、別名荒陵とも呼ばれていた。なお小帝塚山は、住吉中学の敷地内にあったと言われている。また東高津神社は、仁徳天皇の皇居であるとする明治31年(1898年)の大阪府の調査報告などがあることから、歴代天皇のいずれかの皇居であったのではないかという説もある。
なお20世紀末から「日本仏教興隆の祖としての『聖徳太子』は虚構であった」とする言説が盛んになり、『書紀』の記述に疑問を呈する向きもある。また上記の『書紀』の記述とは別に、四天王寺は渡来系氏族の難波吉士(なにわのきし)氏の氏寺であった、とする説もある。
伝承によれば、聖徳太子は四天王寺に「四箇院」(しかいん)を設置したという。四箇院とは敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つである。敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は現代の薬草園及び薬局・病院に近く、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための、今日でいう社会福祉施設である。施薬院、療病院、悲田院は少なくとも鎌倉時代には、実際に寺内に存在していたことが知られる。施薬院は、後に聖徳太子が勝鬘経を講じられた地でもあり「勝鬘院(愛染堂)」とも呼ばれるようになった。四天王寺の勝鬘院(愛染堂)が故地と伝えられている。
法隆寺が飛鳥・奈良時代に遡る建築や美術工芸品を多数残すのに対し、四天王寺はたび重なる災害のため古い建物はことごとく失われている。早くも平安時代の承和2年(836年)には落雷で、天徳4年(960年)には火災で主要伽藍が失われている。
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