2003/11/08

中宮寺から法輪寺へ(夏の法隆寺part8)


 <中宮寺は奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺に隣接する、聖徳太子ゆかりの寺院である。

中宮寺本堂
宗派は聖徳宗に属す。山号を法興山と称し本尊は如意輪観音、開基(創立者)は聖徳太子とされている。推古天皇29年(621年)、聖徳太子が母・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)の御所を寺としたと伝える。

中宮寺は、現在は法隆寺東院に隣接しているが、創建当初は500メートルほど東にあり、現在地に移転したのは16世紀末頃と推定される。創建当時の中宮寺跡は1963年(昭和38年)に発掘調査が行われ、大阪の四天王寺と同様に金堂と塔を前後(南北方向)に並べる四天王寺式伽藍に似た配置であったことがわかっている(講堂、回廊等未確認)

中宮寺は平安時代以降衰微したが、江戸時代初期の慶長7年(1602年)、慈覚院宮を初代門跡に迎え、以後門跡尼寺として今日に至っている(門跡寺院とは、代々皇族、貴族などが住持する格式の高い寺のこと)

境内は、夢殿のある法隆寺東院のすぐ東に接する子院地を拝借している。本堂は、高松宮妃の発願で1968年(昭和43年)に建立した和風の現代建築で、設計は吉田五十八(いそや)である。旧伽藍は、現伽藍から東へ550mほどの所にあり、史跡に指定されている。

菩薩半迦像
天寿国繍帳木造菩薩半跏像(本尊)。飛鳥時代の作。京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏像と、よく比較される。寺伝では如意輪観音だが、これは平安時代以降の名称で当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。材質はクスノキ材で、寄木技法による作例としては最古。国宝指定の際の官報告示は単に「木造菩薩半跏像」である。
出典Wikipedia
 

<東洋美術における「考える像」で有名な思惟半跏のこの像は、飛鳥時代の彫刻の最高傑作であると同時に、わが国美術史上、あるいは東洋上代芸術を語る場合にも欠かすことの出来ない地位を占める仏像であります。また国際美術史学者間では、この像のお顔の優しさを評して、数少ない「古典的微笑」(アルカイックスマイル)の典型として評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作モナリザと並んで「世界の三つの微笑像とも呼ばれています>
出典 http://www.chuguji.jp/index.html

天寿国繍帳残闕(てんじゅこくしゅうちょう ざんけつ)

 

染織品は、陶磁器、金属製品などに比べて保存がむずかしい。天寿国繍帳残闕  本品は断片とはいえ、飛鳥時代の染織の遺品として極めて貴重なもの。現在、奈良国立博物館に寄託。1982年に製作されたレプリカが現在、本堂に安置されている。聖徳太子の母、穴穂部間人皇女と聖徳太子の死去を悼んで王妃橘大女郎が多くの采女らとともに造った刺繍、曼荼羅である。もと2帳で、その銘は『上宮聖徳法王帝説』にある。

紙製文殊菩薩立像(重要文化財)
鎌倉時代の作。紙張子で造像した珍しい仏像で、日本の重要文化財指定の彫刻のうち「紙製」はこの像のみである。東京国立博物館に寄託。

紙本墨書瑜伽師地論 二巻
奈良時代の作。

 <法輪寺は、奈良県生駒郡斑鳩町にある仏教の寺院。三井寺(みいでら)とも呼ばれ「法林寺」「法琳寺」とも書く。宗派は聖徳宗、本尊は薬師如来坐像。法隆寺東院の北方に位置する。現存する三重塔は1975年の再建であるため、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていない。

法輪寺は寺史に関わる史料が乏しいため、創建事情の詳細は不明であるが発掘調査の結果等から、7世紀中頃には存在していたことは間違いない。本尊薬師如来像と虚空蔵菩薩像も飛鳥時代末期に遡る古像である。

三井寺と言う別名は当寺のある三井の地名に由来し、付近に聖徳太子ゆかりと言われている3つの井戸があった所から来ている(3つの井戸のうちの1つが現存し、国の史跡に指定されている)

当寺の創建については『日本書紀』や『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』(ほうりゅうじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)には記載がなく、不明な点が多い。

創建については、古くから2つの説がある。1つの説は『聖徳太子伝私記』(嘉禎4年・1238年、顕真著)に見えるもので、聖徳太子の子である山背大兄王が太子の病気平癒を祈るため、622年(推古30年)に建てたとする。もう一つの説は『上宮聖徳太子伝補闕記』(平安時代前期成立)および『聖徳太子伝暦』(延喜17年・917年、藤原兼輔著)に見えるもので、創建法隆寺の焼失後、百済の開法師・円明法師・下氷新物(しもつひのにいもの)の3人が建てたとするものである。これらの人物の名前については「聞法師、円明師、下氷君雑物(しもつひのきみくさもの)とも伝えるが、いずれの人物も伝記は不明である。

発掘調査の結果、法隆寺再建伽藍(現存)に近い瓦と、それより一段階古い瓦とが出土している。また、前身建物の遺構とみられる掘立柱穴や溝も検出されており、当時の創建は飛鳥時代末期、7世紀中頃まで遡ると考えられている。昭和25年、仏教考古学が専門であった石田茂作(いしだ もさく、1894-1977年)が法輪寺を発掘・調査し、創建当時は東に金堂、西に塔が建つ法隆寺式の伽藍配置で、平面規模は法隆寺の3分の2であったことがわかった。



講堂(収蔵庫) 三重塔
1944年、雷火で焼失後、作家の幸田文らの尽力で寄金を集め、1975年に西岡常一棟梁により再建されたもの。焼失した塔は、近隣の法隆寺、法起寺の塔とともに斑鳩三塔と呼ばれ、7世紀末頃の建立と推定される貴重な建造物であった

木造薬師如来坐像

 

旧金堂本尊で、現在は収蔵庫を兼ねた講堂に安置される。飛鳥時代末期の作で、当代の等身大木彫像として稀有な作である。面長な顔付き、服装、台座の形式など、一見法隆寺金堂本尊の釈迦如来像(銅造)と似るが、両目が単純なアーモンド形でなく複雑な線で表現されるなど、やや時代の降る要素も見られる>
出典Wikipedia

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