母親の協力で密かに専門的な教育を受け、その才能を開花させ始めていた二世。何かにつけ、目の上のタンコブのような存在だった煩いオヤジが居なくなり、千載一遇のチャンス到来とウィーンの盛り場にあるレストランで旗揚げを行うと、噂を聞きつけて集まってきた聴衆は忽ち、この二世に父に勝るとも劣らぬ才能が備わっている事を認め、公演は大成功に終わった。この時、二世は弱冠19歳。既に40歳となり、揺るぎない地位を確立していたかに見えた「ワルツの父」にとっては、思いもよらぬ恐るべきライバル(しかも骨肉を分けた)誕生の瞬間となった。
元々、ランナーとともに始めた父のワルツは、オーストリアがプロイセン(ドイツ)との戦争に敗れ、疲弊の極にあった国家と民衆を元気付けるのには打ってつけの景気の良い音楽として大歓迎されていた。噂を聞きつけたショパンが、ウィーンを訪れて
「どれだけ凄い芸術かと期待したが、単なるダンスのバンマスか・・・」
と吐き捨て、自らピアノで「芸術としてのワルツ」の創作を始めたというエピソードからもわかるように、この見方はあながち嫉妬心から生まれた皮肉とばかりとも言いきれない。後の二世らに繋がる「ウィンナ・ワルツ」の原型を創った功績は大きいものの、一方では、Classic音楽というよりは「ダンス音楽を広めた商業主義者」というショパンの見方も、あながち的外れではないかもしれない。その後、精力的な演奏旅行を続ける二世の人気が次第にヨーロッパ全土に広まっていくと、この強大なライバルの台頭に恐れをなした父は、ウィーンに舞い戻って様々な形で息子の活動の妨害を図った。
こうしてライバルの追い落としを画策したものの、すでにウィーンっ子の心を捉えていたのは、父のものとは比較にならぬほどまで格段に洗練された「新しい芸術としてのワルツ」へと昇華された、二世のウィンナ・ワルツの方であった。
こうして父に代わり二世が「ワルツ王」として、揺るぎない地位と名声を確立していく事になっていった。
同じようにヨーロッパ中を席巻した「ウィンナ・ワルツ」で一時代を築いたとはいえ、250年の時を経た今となってはワルツ王(二世)の方は「オーストリア第二の国歌」として人々に愛唱される『美しく青きドナウ』を始め、有名曲を挙げるだけでも枚挙に暇がないのに対し、パイオニアたるワルツの父の方(ランナーも同様)は『ラデッキー行進曲』などが僅かに残るのみで、殆んど埋もれたまま忘れ去られてしまった。
『皇帝円舞曲』は、当初『手に手をとって』(Hand in Hand)という題名が付けられていたが、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世がオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を表敬訪問した折に「両皇帝の友情の象徴」として、現在の呼び名に改められた。1889年10月にベルリンで初演。随所できらびやかで荘厳な表現が認められ、シュトラウス2世の晩年のワルツの中でも最も人気のある楽曲と認められている。
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