そんなエピソードはさておき、残る学区内で比較的近い公立校となると電車で2~3駅のところに『A商』と同じ、平均辺りの成績でも入れそうなレベルの普通科高校が3つばかりあったが、どれも何故かお気に召さないらしい。そんな様子を見かねた母が奨めたのが、名古屋の私立高校である。
「どうせ電車通学になるのなら、いっそ田舎なんかよりは名古屋の私立に通った方がいいかもよ・・・」
これにはミーちゃんも珍しく、乗り気となった。そのような経緯から『S女学園』を志望したミーちゃんだったが、担任教師からはレベルの下がる『T高』を強力に奨められた。
「『T高』なんて、レベル低過ぎ。制服もダサいし・・・」
などと、ブツクサ文句ばかり言っていたミーちゃんだったが
「オマエの成績では『T高』の方が、よっぽど妥当だ。『S』なんて我が校の提携先ではないから、ウチからは誰一人受験なんてしないぞ。第一『S』では、ハッキリ言って受かる確率は低い」
と担任から強硬に反対され、かなり荒れた日々が続いた (ノ-o-)ノ ┫オリャ
「アンタが本当に『S』がいいって言うのなら、担任なんかがなんと言おうと私はそっちを受けさせるけど。でもさ、先生の言うように『S』に落ちたら、公立へ行くことになるのよ。そこらへんのことは、大丈夫なの?」
「どうせ『I学園』へ行くくらいなら『A商』(『A商業』)へ行くのも変わらんから、近い分だけ『A商』の方がマシだよ」
というミーちゃんの意思を確認した母は
「たとえ落ちたって、いいじゃないですか。本人が行きたいと言ってるんだから!」
と、進路指導相談会で渋る担任教師を遣り込め『S』受験を受諾させた。
「でもね、お母さん・・・正直なところ『S』合格は難しいと覚悟しておいて頂かないと…」
「いいのです、それでも!
本人が行きたくもないところを受験するよりは!」
といった遣り取りの末、当初の志望を貫き私立は『S女学園』、公立は『A商業』を受験となった。
小雪の舞う2月、担任の悲観的な予測を覆し『S女学園』から「合格」通知が来た。
元々、試験嫌いのミーちゃんだけに『S』の滑り止めにと考えていた『A商業』の方は受験を取り止めることになった。再び進路相談で『B中』を訪れた母。
「いやー、『S女学園』合格、おめでとうございます!」
「どうです、やってみなければ、わからないものでしょう?
合格率5割以下とか言われましたけど、こうして合格したのですから」
「いや、それを言われると困りますが、ハハハ・・・ま、私立校は定員よりは多めに合格を出しますからね。いやー、本当に私立だけは、やってみないとわからないものですなー」
とか何とか、言い逃れに汲々としていたらしい。
県内の私立高校といえば、ほぼ名古屋市に集中している。私立高校の数自体は、そこそこはあったとはいえ「公立王国」と言われる愛知にあって、公立校を凌ぐ人気の高い名門といえば男子校の『T高校』、そして女子校では『K学院』、『S女学園』、『愛知S』が「御三家」と言われ、高嶺の華であった。
このうち男子校では『T高校』が、毎年沢山の一流大学合格者を輩出するなど、県内最高レベルの名古屋の公立『A高校』などと肩を並べる、県下随一の進学校としても別格的な存在である。
一方、女子校では御三家の中では『K学院』がお嬢様学校としては突出しており、医者の娘や一流大手企業重役の娘といったところも珍しくはなく、中小企業の社長令嬢だったにゃべっち母でも、まったく目に付くところではなかったという別世界に存在していた。
それに比べれば『S女学園』と『愛知S高校』は数段格が落ちるが、それでも名古屋の女学生たちの憧れである事に変わりはない。殊に『S女学園』の場合は、中部地方で唯一の「総合学園」として、幼稚園から大学院までの一貫教育を行っている事でも知られていた。
にゃべっち母の兄、つまり伯父さんも長女が誕生するや、早速『S幼稚園』へ入園させたまでは良かったが・・・
「娘を『S』に入れたんだけどよー。まぁ、月謝がたきゃー(高い)でかんが(あかんわ)ねー。だもんで2人目の坊主の方(後継社長)は、まー名古屋の市立小学校だがやー」
余談ながら、この伯父さん夫婦は当時としては非常にハイカラというか風変わりで、奥さんはブティックを経営していた。ブティックとはいっても、今のそれとは違い奥さん自らがオーダーメイドで誂えるという、いわば高級住宅地での金持ち相手の商いである。
父は2代目社長、母は高級ブティックのデザイナー兼オーナーという家庭に育った娘は、ご多分に漏れずすっかり手の付けられないワガママ娘に育つのも、致し方のなかったところか。
『S女学園』への通学は、数人の雇われメイドが交代で外車を転がしての送迎となったが
「『お母さんが迎えに来てくれるんじゃなきゃイヤー!
お母さんが来ないんなら私、もう学校なんて行かないからー』
なんて、わがまま言うのには参ったわー。女房はブティックが忙しくて、そんなヒマはあらせんがー」
日頃は太っ腹で鳴る伯父も、この一人娘には散々に手を焼かされたらしい。
結局、この長女は大学までを『S女学園』で通し、短期部を卒業するや突如として
「アメリカへ行きたい!」
と言い出した。ところが、伯父もさるもので
「行きたきゃあ、行ってこやーえーがー」
とアメリカへ送り出してから、数年間はまったく音沙汰がなかったらしい。
「そういやアイツ・・・あのまんま、行ったきりだがやー。あれから、どうなっとんのきゃー?
ちーとも(まったく)音沙汰にゃーで、どうなっとるのかわっかぁせん(わからない)がー」
などと澄ましたものであった。やはり「持てる者」は、なにかとスケールが違うらしい。
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