2004/03/11

賽の河原(世紀末の紅葉part5)

三途川は、此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にあるとされる川。三途は仏典に由来し、餓鬼道・畜生道・地獄道を意味する。ただし、彼岸への渡川・渡航はオリエント起源の神話宗教からギリシア神話にまで広く見られるものであり、三途川の伝承には民間信仰が多分に混じっている。

三途川の出典は『金光明経』1の「この経、よく地獄餓鬼畜生の諸河をして焦乾枯渇せしむ」である。この地獄・餓鬼・畜生を三途(三悪道)といい、これが広く三悪道を指して三途川と称する典拠であるといわれる。しかしながら俗に言うところは『地蔵菩薩発心因縁十王経』(略称:地蔵十王経)の「葬頭河曲。於初江辺官聴相連承所渡。前大河。即是葬頭。見渡亡人名奈河津。所渡有三。一山水瀬。二江深淵。三有橋渡」に基づいて行われた十王信仰(閻魔大王は十王のうちの1人)による。

この十王経は中国で成立した経典であり、この経典の日本への渡来は飛鳥時代と思われるが、信仰として広まったのは平安時代末期とされる。正式には「葬頭河」といい、また「三途の川」・「三途河」(しょうずか、正塚)・「三瀬川」・「渡り川」などとも呼ばれる。

一説には、俗に三途川の名の由来は、初期には「渡河方法に三種類あったため」であるともいわれる。これは善人は金銀七宝で作られた橋を渡り、軽い罪人は山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡り、重い罪人は強深瀬あるいは江深淵と呼ばれる難所を渡る、とされていた。


渡し舟
平安時代の末期に「橋を渡る(場合がある)」という考え方が消え、その後は全員が渡し船によって渡河するという考え方に変形する。

三途川の渡し船の料金は六文と定められており、仏教様式の葬儀の際には六文銭を持たせるという習俗が、以来ずっと続いている。現在では「文」という貨幣単位がないことや火葬における副葬品制限が強まっていることから、紙に印刷した六文銭(冥銭)が使われることが多いようである。

懸衣翁・奪衣婆
三途川には、十王の配下に位置づけられる懸衣翁・奪衣婆という老夫婦の係員がおり、六文銭を持たない死者が来た場合に、渡し賃のかわりに衣類を剥ぎ取ることになっていた。この2人の係員のうち、奪衣婆は江戸時代末期に民衆信仰の対象となり、祀るための像や堂が造られたり、地獄絵の一部などに描かれたりした。

三途川の河原は「賽の河原」(さいのかわら)と呼ばれる。賽の河原は、親に先立って死亡した子供が、その親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積石塚(cairn ケルン・ケアン)または石積みの塔を完成させると、供養になる。しかし完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうと言う。

こうした俗信から「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかし、その子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない。

賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説である。

中世後期から民間に信じられるようになった。室町時代の『富士の人穴草子』などの御伽草子に記載されているのが最も初期のものであり、その後、「地蔵和讃」、「西院(さいの)河原地蔵和讃」などにより広く知られるようになった。

この伝承から、石が多い湖畔や河原、海蝕洞内を含む海岸に、積み石や子供を救済するとされた地蔵菩薩像などが造られて「賽の河原」と呼ばれるようになった場所も、数カ所存在する。後述の恐山(青森県)のほか、佐渡島北部、島根県にある加賀の潜戸(くげど)などが有名である。

 

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