光悦寺を出て、少し歩くと常照寺という小さな寺院がある。小さいが、ここも紅葉の名所として知られる。
<常照寺は、日乾上人に帰依した吉野太夫ゆかりの寺として知られ、太夫の墓や太夫が寄進した「吉野の赤門」と呼ばれる山門、吉野窓(茶室)、吉野桜も有名。
寺の始まりは元和2年(1616)、本阿弥光悦の子・光嵯が発願し、本阿弥光悦の寄進した土地に日蓮宗中興の寂照院日乾上人を招じて開祖。寛永4年(1627)には僧達の学問所として鷹峰壇林(学寮)を開設。往時は大小の堂宇が建ち並び、山城六壇林として栄えたが明治に廃止されている。
赤い山門は「吉野門」とも呼ばれているが、名妓2代目吉野太夫の寄進。寛永5年(1628)、日乾上人に帰依した吉野太夫(23歳の時)が、私財を投じて山門を寄進したもの。太夫は、都の六条三筋町(後の島原)に在った廓の名妓で、遊女としての最上位にあたる太夫。教養が高く、和歌、連歌、俳句、書、茶道、華道、音曲、囲碁、双六など諸芸に優れていただけでなく、その美貌は遠く唐(中国)にまで伝わっていたという。
当時の上流社会の社交場の花であった太夫は、京の豪商で文化人でもあった灰屋(佐野)紹益に見初められることとなった。しかし、身請けしようとした紹益の親は猛反対。その後、吉野太夫に会った親は、身請けを許している。
この二人のロマンスは、歌舞伎などでも演じられ有名。なお、吉野は38歳という若さで病死したが、日乾上人に帰依し、生前には山門を寄進した縁もあり、この寺に葬られたもの>
<境内には復興時に植えられた吉野桜が現在も見事に花を咲かせていて、毎年4月の第三日曜日に太夫による花供養が催され、島原の太夫行列や境内での野点茶席で賑わう。
山門を潜ると正面に本堂、右手に帯塚がある。この帯塚は、造園界の権威者、大阪芸術大学元学長、故中根金作氏の作品。帯塚の石は、四国・吉野川で採取された自然石で、女性の心の象徴“帯”に感謝して昭和44年(1969)に建立されたという。
本堂の右奥にある客殿へ入ると、庭を眺めながら抹茶を頂ける。庭には鷹が飛び立つ姿に見えるという「比翼石」。奥には吉野と灰屋の二人の名前を刻んだ比翼塚と歌碑(紹益が詠んだ)がある。
比翼塚は、二人の墓が別々に(夫・紹益の墓は、上京区七本松通仁和寺街道上るにある立本寺(りゅうほんじ)なっていることから、せめて墓だけでも二人を添わせて上げようと、昭和46年(1971)歌舞伎俳優の 第十三代片岡仁左衛門らによって建立されたもの>
さらに、光悦寺の真向かい。道路をはさんで向かい合って「円成寺」という寺院があった。
<鷹ヶ峰東麓に位置する円成寺は岩戸妙見宮と呼ばれる日蓮宗のお寺で、光悦寺の北向いにある。祀られている妙見菩薩は、北斗七星と北極星を神格化した神で、善悪や真理をよく見通す力を持っているといわれている。大黒天、毘沙門天などと同類の天部仏である。江戸時代に能勢妙見信仰が庶民の間にひろがり、京都でも妙見信仰がひろまった>
鐘楼の上から美しい紅葉の撮影をしていると、裏の方でゴソゴソという音がする。
「野良猫?」
と思ってその方を見やると、二人のオバサンが弁当を食べていた。
0 件のコメント:
コメントを投稿