2日目は嵐山だ。
嵐山といっても、今回は有名な天龍寺や渡月橋ではない。嵐山からバスに乗って山を登っていくと、お目当ての「化野念仏寺」である。間の悪いことに、そのバスには10人ほどのオバタリアン団体が同乗していて、耳を聾せんばかりのお喋りが間断なく繰り広げられていた。
なんとかイライラを我慢してようやく目的地に着いたが、バスの料金表の表示の見方が良くわからず、運転手に
「幾ら?」
と聞くと
「表示が出とるやろ」
と言われ、激怒した。
「見方がわからんから、聞いてんだよ」
言われた料金を料金箱に入れ、降りかけたところで
「事前に用意しとけ、ボケ」
という呟きが聞こえたから、また戻ることに。
「用意しとけとはなんじゃい、こら!」
「あらかじめわかっとんのやから、用意しとけばえーやろ」
「何を偉そうに言ってんだ、バカモノ」
どうも運転手と言うのは、態度やガラの悪いのが多くて困る。
かつて誰かから
「京都は町は美しいが、京都人の心は美しくない」
と聞いたことがある。そのような、十把一からげ的な短絡的な見方には苦笑したものだが、自らの経験地に照らせば運転手の態度が概して悪い印象は確かに強い。
こんなところから
「京都人は威張っている」
という評判が出るのかもしれないな、と思った。
確かに観光者のマナーは非常に悪いから、地元の京都の人からすればバカにしたくなる気持ちもわからないではないが「世界的な観光地」の住人としてはもっとおおらかな心で接してもらいたい。
それはともかくとして、バスを降りたところの景色は素晴らしい。普段見慣れた渡月橋や天龍寺よりも、さらに嵐山の懐に入り込んだ感じで、山々が身近に迫ってくる迫力がある。折角このような美しい景色の案内人なのだから、運転手たるものもう少し愛想を良くて欲しいものだ、と返す返すも惜しまれるのである。
化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)は、京都市右京区の嵯峨野にある浄土宗の寺。山号は華西山。化野は東山の鳥辺野(とりべの)、洛北の蓮台野と並ぶ平安時代以来の墓地であり、風葬の地として知られる。
伝承によれば弘仁2年(811年)、空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのに始まるとされ、後に法然が念仏道場を開き、念仏寺となったという。本尊は阿弥陀如来像(寺伝に湛慶作というが、実際の作者は不明)、本堂は江戸時代の正徳2年(1712年)に寂道により再建されたもの。
境内の約8000体という夥しい数の石仏・石塔は、明治36年(1903年)頃に、化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものである。境内には水子地蔵もあり、地蔵菩薩の縁日には水子供養が行われている。
出典 Wikipedia
寺伝によれば、化野の地にお寺が建立されたのは、約千二百年前、弘法大師が、五智山如来寺を開創され、その後、法然上人の常念仏道場となり、現在、華西山東漸院念仏寺と称し浄土宗に属する。
「あだしの」は「化野」と記す。「あだし」とははかない、むなしいとの意で、又「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往来する願いなどを意図している。
この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。
西院の河原
境内に奉る多くの石仏・石塔は往古あだしの一帯に葬られた人々のお墓である。何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだしのの山野に散乱埋没していた。
明治中期に地元の人々の協力を得て集め、極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々になぞらえ配列安祀してある。賽の河原に模して「西院の河原」と名付けられた。
約8000体という石仏・石塔は、実に壮観だ。それぞれに表情があって、同じものはひとつもない。これだけのものが一同に集まっていると言うのは、見るものを圧倒する。そしてバックには嵐山を借景に、美しい紅葉が光り輝いているという、なんとも幻想的というか不思議な眺めが目の前に広がっていた。
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