2004/03/26

ヨハン・シュトラウス2世 ワルツ『ウィーンの森の物語』




 ワルツのルーツは、19世紀初頭のヨーゼフ・ランナーから始まった。ランナー率いる楽団で第二指揮者を務めていたのが、ヨハン・シュトラウス父(以下、シュトラウス一世)で、次第にメキメキと頭角を表すやランナーとともに

「ヨーロッパ中に、ワルツを流行らせよう!」

と、若い情熱で熱心に演奏旅行をして回った。まもなくシュトラウス一世はランナーから独立し、自ら楽団を率いる事となる。そうして、たもとを分かったかつての友人とは、ライバルとして互いに切磋琢磨しながら、目論見通りヨーロッパの広範囲にまで、ワルツという新しい文化を広めるのに大成功した。その間、競争に敗れたランナーの方は表舞台から姿を消し、残ったシュトラウス一世には「ワルツの父」という尊敬と羨望が集まった。

シュトラウス一世が若くして設けた3人の子は、いずれも音楽の才能に恵まれた。が、当時まだ不安定な身分だった「職業音楽家」として散々に辛酸を舐めてきた父は、子供達が音楽家になるのに猛烈な大反対をする。音楽家としての夢を持つ長男の二世は、父親の目を盗んでは屋根裏に隠れてヴァイオリンを練習するうち、忽ち頭角を現した。6歳の時に、早くもワルツを作曲したといわれるほど早熟な才能を発揮し、母親の庇護の下で父に隠れて密かに専門的な音楽修業に打ち込んでいった。

そんな二世の前に、壁のように大きく立ちはだかっていたのが父親である。ウィーンを中心に、ヨーロッパ中で爆発的な人気を誇っていた父の蔭に、二世は精々日陰の花のような地味で目立たない存在に過ぎなかった。ところが人生というものは、思わぬところで意外なチャンスが転がり込んでくるものである。 

元来、遊び人でもあった父が家族を放ったらかして、愛人の元へと姿を晦ましてしまったのだ。母親の協力で密かに専門的な教育を受け、その才能を見事に開花させ始めていた二世にとっては、何かにつけて目の上のタンコブのような存在だった煩いオヤジが居なくなったことは、勿怪の幸い、これぞ千載一遇のチャンスとばかり、ウィーンの盛り場にあるレストランで旗揚げを行った。

『ウィーンの森の物語』(Geschichten aus dem Wienerwaldは非常に人気の高い作品であり、シュトラウス2世の「十大ワルツ」のひとつとされ、その中でも特に『美しく青きドナウ』と『皇帝円舞曲』とともに「三大ワルツ」に数えられる。

18686月の初頭にわずか一週間で書き上げたものといわれる作品。発表されるとたちまち大好評を博し、時のオーストリア=ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、このワルツを次のように評したという。

「これで奴隷や囚人も、一つのあこがれの歌を持つようになった」

このワルツは題名の通り、ウィーンっ子の憩いの場であった美しい緑地帯「ウィーンの森」を描写した作品である。しかし、当のシュトラウス2世は自然が大の苦手で、自然の中に出かけていくことに対して尋常ならざる恐怖を抱いていたというが、そんな彼がこのワルツを作曲しようと思い至った理由は明らかでない。

構成は他の楽曲と比べて複雑であり、踊るためのワルツというよりは演奏会のためのワルツである。実際にシュトラウス2世は、ロシアのパヴロフスク駅での仕事を受け持つようになった頃から、聴くためのワルツに関心を寄せるようになっていた。

序奏は非常に長大なもので、細かく分かれている。序奏に登場するツィターは南ドイツからオーストリアにわたる地域の民族楽器で、シュトラウス2世は帝都ウィーンと周辺地域の融合を表現するために、この楽器を使用したといわれている。

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