2004/03/12

嵯峨鳥居本と野宮神社(世紀末の紅葉part6)

 化野念仏寺に続いて、嵯峨鳥居本を訪れた。

<古くは「化野(あだしの)」と呼ばれ、京の人々の埋葬の地であった。現在の町並みは、愛宕神社の門前町として発展したもので、化野念仏寺を境に瓦屋根の町家風民家が並ぶ下地区と、茅葺きの農家が多い上地区と二つの風景が共存する。

国の重要伝統的建造物群保存地区に選定。京都市右京区。嵯峨野の最北部が嵯峨鳥居本という地域である。昭和54(1979)、周囲の美しい自然景観を背景にした、この町並みを保存するため、京都市は「伝統的建造物群保存地区」に、また国も「重要伝統的建造物群保存地区」に選定している。

 化野念仏寺までを嵯峨鳥居本の下地区と呼び、町家風民家が並んでいる。化野念仏寺を境にして、愛宕神社一之鳥居までの上地区には家並みも昔ながらの民家となり、茅葺き屋根の家が見られ、国の重要伝統的建造物群保存地区となっている。嵯峨鳥居本は室町時代末期ごろから農業、林業そして漁業を中心として開かれた里村。



その後、江戸時代の中期になると「鎮火の神」として広く信仰を得た愛宕神社の門前町としての性格と、農村を併せもった町として発展してきた。上地区を散策する人は少なく街道はひっそりとするが、一之鳥居近く愛宕道と瀬戸川に挟まれたところに、平成5年から嵯峨鳥居本町並み保存センターとして「鳥居本町並み保存館」が開館している。建物は、明治初期に建てられた建物。

平成4(1992)に京都市が土地・建物を所有者から借り受け、復元・修理を行い、一階は格子、ばったり床几に駒寄せがあり、中二階にむしこ窓、土間にはおくどさんや井戸などを置き、明治の雰囲気を蘇らせた建物。保存館には、当時を再現した町並み模型がある。

鳥居本町並み保存館をさらに進むと朱色の鳥居がある。この鳥居が愛宕神社の一之鳥居で、鳥居の前後に観光ポスターでお馴染みの「つたや」と「平野屋」の2軒の鮎料理屋がある。

平野屋さんの更に奥へ行くと愛宕念仏寺、そしてトンネルを抜けるとモミジとゲンジホタルで知られた「清滝」となる。嵐山の渡月橋から歩きはじめ、途中に寄り道も無くここまで1時間弱。途中、社寺拝観などする場合は、往復で半日は予定しておきたい。

野宮神社(ののみやじんじゃ)は、京都市右京区の嵯峨野にある神社である。祭神は野宮大神(天照皇大神)。旧社格は村社で、現在は神社本教の被包括法人となっている。


伊勢神宮に奉仕する斎王が、伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に由来する神社であると伝えられる。天皇が代替わりすると、未婚の皇女・女王の中から新たな斎王が卜定され、嵯峨野の清らかな場所を選んで作られた野宮に入って一年間、潔斎した後に伊勢神宮へ向かった。その時の行列を「斎王群行」といい、現在では毎年10月の例祭において「斎宮行列」としてその様子を再現している。

野宮の場所は毎回異なっていたが、嵯峨天皇の代の仁子内親王の時から現在の野宮神社の鎮座地に野宮が作られるようになった。

斎王の制度は南北朝時代の後醍醐天皇の代を最後に廃絶し、その後は天照大神を祀る神社として存続していたが、戦乱の中で衰退した。後に後奈良天皇、中御門天皇らの命により再興され、皇室からの厚い崇敬を受けた。

鳥居は樹皮がついたままの「黒木の鳥居」で、古代の鳥居の形式を伝えている。境内には苔を用いた美しい庭園として有名な「野宮じゅうたん苔」がある。源氏物語「賢木」の巻にも現れ、謡曲「野宮」の題材ともなっている。
出典 Wikipedia

 この地は、平安時代に伊勢神宮の斎王に選ばれた皇女が伊勢へ赴かれるまでの間、心身を清められるための潔斎所である「野々宮」が築かれた聖地で、各地に残る「野々宮」の名称は、この地が発祥とされています。

平安時代以後、天照大御神の御神鏡を伊勢の地に奉祀された倭姫命の御聖徳と、慈悲淑徳の誉れ高き布勢内親王を偲び「西院・野々宮神社」が創建されて以来、皇室をはじめ公家・庶民にいたるまで広く崇敬を集めてまいりました。


 
江戸時代以降「西院・春日神社」の御旅所とされ、十月の祭典には天皇の御使いをはじめ多くの公家が参列し、現在でも十月第二日曜には、春日神社の神輿二基が千人にもおよぶ供奉を従えて渡御され、春日神社宮司斎主のもとに祭典が営まれます。

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