最初の目的地は「源光庵」という寺院である。
源光庵は、京都市北区鷹峯(たかがみね)北鷹峯町にある曹洞宗の寺院。山号は鷹峰山。正式には鷹峰山寶樹林源光庵という。本尊は釈迦如来。
1346年(貞和2年)に臨済宗大徳寺の徹翁義亨の隠居所として開基。当初は復古堂と呼ばれた。その後、1694年(元禄7年)に卍山道白により曹洞宗に改宗された。1694年の建立。
天井板は伏見桃山城から移築したもので、1600年(慶長5年)に徳川家家臣鳥居元忠らが石田三成に破れ自刃した時の跡が残り、血天井となっている。その脇に丸窓と角窓があり、それぞれ「悟りの窓」、「迷いの窓」と呼ばれている。
・迷いの窓・・・迷いの窓の四角い形は、人間が誕生し一生を終えるまで逃れることのできない過程、つまり「人間の生涯」を4つの角で象徴している。この「迷い」とは「釈迦の四苦」のことで、この窓が生老病死の四苦八苦を表しているといわれている。
・悟りの窓・・・悟りの窓の丸い形は「禅と円通」の心が表されている。ありのままの自然の姿、清らか、偏見のない姿、つまり悟りの境地を開くことができ、丸い形(円)は大宇宙を表現している。
我々のような素人にもわかりやすいコンセプトであり、実際に目の前にこうして丸窓と四角の窓が並んでいるだけでも、大いに興味をそそる。なによりも、この窓から眺める庭園が素晴らしいというのも、大きな魅力となっていることは言うまでもない。
続いて訪ねた光悦寺は、この地区随一の紅葉の名所として知られており、初日最大のお目当てである。
『本阿弥行状記』によれば、当時は「辻斬り追い剥ぎ」の出没する物騒な土地であったという。この地に光悦の一族や様々な工芸の職人らが移り住み芸術の集落となった。光悦の死後に屋敷は寺となり、境内には光悦の墓碑がある。境内には大虚庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛庵、自得庵の7つの茶室が散在し、庫裏に接して妙秀庵がある。これらはいずれも大正時代以降の建物である。
大虚庵・・・境内に建つ茶室。「大虚庵」は、光悦が鷹ヶ峰に営んだ居室の名称であるが、現在ある大虚庵は大正4年(1915年)に新たに建てられたもので、道具商・土橋嘉兵衛の寄付、速水宗汲の設計である。ただし、建設後に光悦会によって改造されており、正面入口の貴人口(障子3枚立て)がにじり口に変更されたほか、間取りも当初の三畳台目から四畳+二台目に変わっている。大虚庵前の竹の垣根は光悦垣またはその姿から臥牛(ねうし)垣と呼ばれ、徐々に高さの変る独特のものである。
三巴亭・・・大正10年(1921年)に建てられた数奇屋建築で、八畳2室、水屋等からなる。北西の八畳は光悦堂と称し、仏壇には光悦の木像を安置する。
本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))は、江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。
石畳の参道を歩いていくと、有名な「光悦寺垣」が見えてきた。
<庭の区切りとして用いた透かし垣のひとつ。その名の通り京都・鷹ケ峯の光悦寺にちなみ、光悦寺の他、臥牛垣(がぎゅうがき)などとも呼ばれています。
光悦寺にあるこの竹垣は、大虚庵の路地と寺の境内を仕切っています。矢来風に菱に組んだ組子の天端を割竹で巻き、玉縁とし、垣面は親柱からゆるやかな大きなカーブを描いています。光悦寺独特のこの垣は、菱目に編んだ平面的な部分と立体の調和がとれた美しい垣です。
光悦寺垣の向こうには、赤や黄の紅葉がグラデュエーションとなり、その向こうには鷹峯の山を借景とした景観が素晴らしく、しばし見蕩れる。期待通り、美しい紅葉を満喫することが出来た。
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