字面もおもろい上に、読みがまたそれ以上に意表を突く地名である。
《大阪の陣の時、伊達家が陣所を設けた要害の堀であったのを更に堀足して開発したもので、最初は「伊達堀(だてぼり)」と呼んだ。しかしその後、伊達の読みが「いだち」から「いたち」に変わり、後にこの地で材木の立ち売りが許可されると「立売堀」と書いて「いたち堀」と読むようになった。ちなみに、材木市は「立売堀」と「長堀」のみに限って市を立てることができ、この辺りは材木浜として有名になった》
《大坂冬の陣・夏の陣の時、伊達家がここに壕を堀り陣地としていたが、その跡を掘り進んで川としたことから当初は「伊達堀」(だてぼり)、そして後には「いたちぼり」と呼んでいた。その後、沿岸で材木の立売が許されたため字は「立売堀」と改められたが、これを今まで通り「いたちぼり」と読ませていた》
《「いたちぼり」の地名の由来は、大坂の陣にあたって、寛永3年に開削された川の傍を伊達氏が陣所としていた事に始まる。「伊達堀(だてばり)」と呼ばれた堀は、いつしか「伊達」を「いたち」と読むようになった、と言われている。江戸時代には木材市がこの地で行われるようになり、明治中期頃からは鉄材問屋が建ち並んだ。現在でも立売堀といえば、わが国でも有数の機械工具問屋街として知られる。地名の由来となった堀川は、昭和31年1月に埋め立てられた》
元和6年、開削に着手。一時工事が中断の後、時の三郷総年寄であった宍喰屋次郎右衛門により寛永3年(1626)竣工した堀があった。これは、別名「鼬(いたち)堀」とも呼ばれた。この堀を慶元の戦の時に、近くに陣所を構えた伊達家が要害の為に掘切りし、跡を削り足して川としたことで「伊達堀」と呼ばれ、後は俗に訛りして「いたちぼり」と言われた。その後、近くに材木市場があり、材木の立ち売りが行われるに至り「立売堀」と改めた、と言われている》
《立売堀は元和6年(1620)に開削に着手され、一時工事が中断されていたところへ三郷惣年寄り宍喰屋次郎右衛門が受け継いで、寛永3年(1626)に完成した。なぜ「いたちぼり」と呼ぶかというと、次のように四つの説があげられる。
(1)もと阿波座の阿波屋西村太郎助家の所有地だったのが、寛永8年(1631)新町郭が出来た時に敷地を割り売りしたので断売堀、また居断堀の地名が出来た西村家家伝に記されている。
(2)攝津名所図会大成によると、大阪冬の陣・夏の陣の時に伊達正宗が陣地を構え要害の堀切をした跡を掘り足して川としたので、始めは「伊達(だて)掘」と呼んでいたのが、字音のまま「伊達(いたち)掘」と言いならわしたという説。
(3)鼬がいたから鼬堀となり、転化して「立売堀」になったという説。
(4)材木の立売りが行われたので 「立売堀」と書き、これを「いたちぼり」と転音して読むようになったという説。
(4)材木の立売りが行われたので 「立売堀」と書き、これを「いたちぼり」と転音して読むようになったという説。
京都にも「立売××」といった地名があったように記憶しているが、こちらは「いたち」とは読まず「たちうり」と読む。もっとも普通に「たちうり」と発音するケースはあまり耳にしたことはなく、大抵の人は「たちゅ~り」といった関西風のアクセントで呼ばれていたため「よそモン」には、尚更わかりづらいのであった ( ´艸`)ムププ
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