2004/05/15

伏見稲荷大社と伏見城(伏見・宇治旅行part4)

伏見稲荷大社は、京都市伏見区にある神社である。稲荷神を祀る全国約4万社の稲荷神社の総本宮とされる。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。

式内社(名神大)、二十二社の上七社の一社で、旧社格は官幣大社。宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を主祭神とし、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神(しのおおかみ)を配祀する。稲荷神が農業の神であるために、五穀豊穰・商売繁盛・交通安全といったご利益がある。

毎年初詣の時期は、近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める。

 

和銅年間(708715年)(一説に和銅4年(711年)27日)に、伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まる秦氏にゆかり深い神社であるが、秦氏来住以前の原信仰が基礎となったとされる。和銅以降秦氏が禰宜・祝として奉仕したが、吉田兼倶の『延喜式神名帳頭註』所引の山城国風土記逸文(但しこの風土記は延長3年(925年)に編纂の始まったもの)には、秦氏が稲荷神を祀ることになった経緯が以下の様に記されている。

秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)達の先祖である伊侶巨秦公は稲を多く持ち富裕であったが、稲を舂いて作った餅を的にすると、その餅が白鳥となって稲荷山に飛翔して子を産み社となった。伊侶巨秦公の子孫は先祖の過ちを認め、その社の木を抜いて家に植え寿命長久を祈った。

延喜式神名帳には「稲荷神社三座 並名神大 月次・新甞」と記載され、名神大社に列し月次・新甞の幣帛を受けた。明治4年(1871年)には、近代社格制度のもとで官幣大社に列格するとともに、正式社名を「稲荷神社」とし「官幣大社稲荷神社」となったが、戦後昭和21年(1946年)に神社本庁とは独立した単立宗教法人となり「伏見稲荷大社」と改称した。これは神社本庁が伊勢神宮を本宗とするのに対し、大社側として別の見解を取ったためで、神社本庁との関係は良好である。

社家には学者が多く、国学者の荷田春満も当社の社家出身である。境内には荷田春満の旧宅が保存されており、隣設して荷田春満を祭神とする東丸神社がある(元は末社であったが、現在は独立した神社)。

境内
現在の本殿は、応仁の乱で焼失した後に明応8年(1499)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。

また17世紀初創建の「御茶屋」も重要文化財に指定されている。

稲荷山には信者から奉納された約一万基の鳥居があり、特に千本鳥居と呼ばれる所は狭い間隔で多数建てられ名所となっている。鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まった。

 

無数の石碑(その数、一万基、あるいはそれ以上とも言われる)が存在し、「お塚」と呼ばれている。各石碑には「白狐大神」や「白龍大神」などといった神名が記されている。参拝者の中には、石碑の前にひざまづいて「般若心経」や「稲荷心経」などを唱えている人もおり、日本で神仏分離が行われる前の信仰(→神仏習合)が、今でも保たれているのを見ることができる。

伏見城は、現在の京都市伏見区にあった城。「伏見桃山城」は、史実にはない近代建築である。

伏見城は豊臣秀吉によって、自身の隠居後の居所として造られたものが初めである。歴代3度にわたって築城され、初めに指月山に造られたものを指月山伏見城、震災後に木幡山に移されたものを木幡山伏見城などと区別される。さらに、木幡山伏見城は創建時である豊臣期と、関ヶ原の戦災後に再建された徳川期のものに分けられる。

秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は大坂城に移り、五大老筆頭の徳川家康が代わってこの城に入り、政務をとった。関ヶ原の戦いの際、家康の家臣鳥居元忠らが守っていたが、石田方に攻められ建物の大半を焼失している(伏見城の戦い)。

なお、立てこもっていた徳川家の家臣達が自刀した建物の血痕の残る床板は、京都市の養源院など複数の寺に供養も兼ねて天井板に再利用されており、血天井として現在でも生々しい血痕を見る事が出来る。後に、家康によって再建され、廃城後はその建造物及び部材が各地に転用・移築されている。

天守
徳川期木幡山伏見城の天守は、二条城へ移築されたため史料が比較的残っているが、それ以前の天守については不明な部分が多い。

『洛中洛外図屏風』池田本では、徳川期木幡山伏見城のものと見られる天守が白壁の望楼型5重に描かれている。伏見城に移築される以前は、豊臣秀保期大和郡山城の7重天守であったが、伏見城へ移築するにあたり5重に改められたといわれている。

しかし、大和郡山城の天守については、伏見城へではなく徳川家康によって二条城へ移築されたという説があり、寛永6年(1624年)徳川家光の二条城改修によって、二条城旧天守を淀城へ移築する代わりとして、伏見城天守は二条城へ移築されたという。この二条城の寛永期天守は、寛延3年(1750年)に落雷により焼失している。

現在見られる花畑跡の模擬天守は、岡山池田氏に伝わる洛中洛外図屏風に描かれているものをモデルとしたものだが、史実には直接の関係はない。

 

歴史・沿革
記録によれば、室町幕府の家臣であった三淵藤英(細川藤孝(幽斎)の実兄)が伏見に居城を持っていたとされるが、詳細は不明である。

1592 - 豊臣秀吉が隠居所として、宇治川沿いの低地丘陵である指月山に、後に破却した聚楽第の建物の一部を移築するなどして築城された(指月城)。

1596 - 地震で倒壊したため、約500m離れた木幡山(現在の桃山)に新たに築城し直された(木幡山城)。

1598 - 豊臣秀吉が、この城で死去する。

1600 - 伏見城の戦いで焼失。

1601 - 徳川家康により再建される。

1603 - 「将軍宣下の儀式」に使用。

大坂の役の後、伏見城の役割は大坂城へ移り、江戸幕府にとってこの城の重要性は薄れたため、徳川秀忠の隠居後の1625年に廃城となった。

廃城後
開墾されたため桃山と呼ばれた。伏見城を通称桃山城というのはこのためである。また、開墾に携わった一族の末裔は、吉村酒造蔵元の吉村家と伝えられている。

伏見城本丸跡などの主郭部分は、のちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたため、現在は無許可での立入を禁じられている。

伏見城花畑跡には、第二次世界大戦後の1964年に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、園内には56階の大天守と34階の小天守、櫓門等を伴った模擬天守がRC造で造られた。

20031月、伏見桃山城キャッスルランドが、経営母体である近鉄のリストラの一環として閉園とされたが、伏見桃山城は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり、取り壊しを免れた。現在は公園として整備されている。京都市が無償で譲り受けたが、老朽化で内部非公開となっている。

200710月には時代劇映画『茶々 天涯の貴妃』撮影のため、望楼の下に虎の装飾や鯱を金色に塗り替えるなど、大坂城に見立てて改装。約1億円の改修費は東映が負担し、大坂城としての改修は年内継続された。

2009220日に宮内庁の許可を得て、日本考古学協会によって本格的な調査が行われ、45mの盛り土が行われていることが判明。未発見の古墳ではないかと言われている。
 
遺構
廃城に際して、天守を始め多くの建物が他の場所に移築された。有名なものでは二条城や常寂光寺などがあり、なかでも福山城には、櫓、城門、殿舎、湯殿、多聞櫓、土塀など特に多くの施設が移されている。 移築の伝承を持ち、現存する主な施設を以下に挙げる。この内、移築が裏付けられているのは指月山伏見城の遺構である西教寺客殿と、徳川期木幡山伏見城の遺構である福山城伏見櫓のみである。
出典 Wikipedia

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