2004/05/10

女子マラソン劇場part1

 マラソンの起源は、有名な「マラトンの故事」と言われる。

《紀元前490(一説には450)年912日、ギリシャ軍とペルシャ軍は戦争中であった。首都アテネまで40kmに迫ってきたペルシャ軍を、マラトンの村で迎え撃った僅か1万のギリシャ軍は、見事に勝利を収めた。伝令を命じられた俊足の兵士が、マラトンの戦場からアテネまで走り続け、アテネ市民に「歓べ、勝ったぞ!」と軍の勝利を伝えると、そのまま力尽きてしまったという故事である。負けたペルシャ軍が、今度は海からアテネを攻撃してくる事を恐れ、ペルシャの海軍が来るより先に、急いでアテネ市民に伝える必要があったのだ》

《紀元前450912日(紀元前490112日説も)、アテナイ(現在のアテネ)を落とす事を目標にマラトン(Marathon)に上陸したペルシャの大軍を、アテナイの名将ミルティアデスが奇策で撃退したマラトンの戦いで、アテナイ軍の勝利というエウアンゲリオンを伝えるため、フェイディピデス(Philippides)(プルタルコスによれば、エウクレス(Eukles))という兵士が伝令となり、アテナイの城門で勝利を告げ力尽きて息を引き取った、と言われている(ただし、この話が史実かという点については、疑問も出されている》

42.195キロという距離は、マラトンの丘からアテネまでの距離だと思われているフシがあるが、これは間違いである。1927年に国際陸上競技連盟(以下国際陸連)がマラトン~アテネ間を計測したところ、36.75kmしかなかったという。では「42.195km」の起源はというと、1908年に行われたロンドンオリンピックにおけるマラソンコースからで、ウィンザー城から競技場間の距離を基準にしたというのが本当のところだ。42.195kmというのは、26マイルにトラック2周分を加えた距離であり、城に住んでいた幼い王女が「子供部屋からマラソンが見たい」と言い出した事が「ウィンザー城の育児室、窓の下からスタート」に決まった経緯であった》

 改めて言うまでもなくマラソンというのは苛酷な競技であり、当初は男性しか行われていなかった。オリンピックに「女子マラソン」という種目が登場してきたのは、1984のロサンゼルス大会からである。元々、男女の体の構造からすると瞬発力や爆発力向きの男性に比べ、持久力が勝負となるマラソンは女性向きなのではないか、とも言われる。ところが少し前までのマラソンならともかく、最近では女子マラソンも急激に「スピードマラソン化」が進み、持久力だけではなく瞬発的な爆発力も求められて来ている。

ところで女子マラソンのTV中継を観ていると、非常に目に付くのはコーチの存在だ。マラソンに限らず、女性のスポーツ選手の場合、どんな競技でも男性コーチがピッタリと、影のようにくっ付いている光景はお馴染みだが、マラソンを完走した時に待ち構えていたかのように、手を広げて迎えるコーチの胸にダイブするようにしてヒシとばかり抱き合うあの姿は、まるで人目も憚らぬ恋人同士のように見えることも珍しくはない。

それはともかくとして、繰り返すがマラソンというのは数あるスポーツの中でも、特に苛酷で厳しい競技なのである。殊に近年のスピード化した女子マラソンは、最早「持久力の勝負」という次元を超えた、いわば人体構造的には女性の体の極限を超えたものだと思わざるをえないところまで、来ているものと思われるのである。その上に、オリンピックや世界選手権でメダリストを目指すようなトップアスリートともなれば「高地トレーニング」で月に200km250kmも走るとも言われるように、来る日も来る日も狼のような苛酷な練習にも耐えなければならず、あまつさえ大会前は食事すらもが制限されるという(特に体質的に、男性よりも脂肪が付き易い女性には)、どこまでも人体生理学に反するような修羅場の連続といえる。

 これだけ人体の生理に反することばかりをしていて、なおかつ体に異常が出なければ奇跡のようなもので、殆んどの選手が持病を抱えていたり場合によっては満身創痍といった中で、無理を圧して耐えているのが現状と言える。「それはオマエの勝手な想像だろう」と言われる人は、現にマラソンランナーの身体を改めて見直してみるが良い。マラソンという競技の性質上、風の抵抗を受けるのは最も不利なので、一般的に言う女性的ないわゆるグラマーな体型の選手は数少ない。どちらかといえば痩せこけて凹凸のない扁平な体の、肌もどことなく潤いに欠けてパサついていたりで、思い切って言ってしまうなら「xxxさんのような体」になってしまっている選手も、決して少なくはないのである。

事実、見た目が「xxxのような」というばかりではなく、あまりの苛酷なトレーニングの積み重ねで「女性らしくない体」を通り越し、実際に「生理的にも女性の体ではなくなってしまう」ケースすら決して珍しくないのである。いかにアスリートとはいえ「生理的な女」を捨ててまで、頑張れるものなのかという疑問が生じるが、そこで重要なファクターとなってくるのが、前にも触れたように精神的な支えとなっている「コーチ」の存在だ。

トップアスリートといえば、大概は世間的には独身であり妙齢の女性である。  この突然に襲ってくる体の変調は、見方によっては「女性としての終焉」をも意味するだけに、精神的な大パニックをきたさない方がおかしい。そこでマラソンを辞めてしまう事が出来るならば問題はないだろうが、オリンピックや世界選手権におけるメダルの有力候補ともなれば、これまでに営々と積み上げてきた成果を総てオジャンにして、そう簡単に辞めるというわけにもいかないし、本人の意志のみならず周囲の思惑や面倒なしがらみやら、あれこれと付いて回るに違いない。

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